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今が生死

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2019.04.10
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カテゴリ:嬉しかったこと


昨日高知県から友人がはるばる訪ねて来てくれて昼休みのひと時歓談した。彼とは静岡大学の仰秀寮で一緒に暮らしたことがある間柄である。彼は文科系のドイツ語専攻だったが卒業後中学の教師になり、いろいろ経験したかったとのことで、51歳で退職し庭師見習い、タクシー運転手、赤帽などを経験してきたとのことである。常に理想的な生き方を求めており、私とほぼ同じ年齢だが考え方が若く生き生きしていた。歴史もよく学んでおり、高知(土佐)の英雄 坂本龍馬暗殺犯人についても話してくれた。龍馬は多くの人から恨まれており、京都見回り組、紀州藩、西郷隆盛、武器商人のグラバーその他沢山の人が暗殺犯人疑いに上げられているが、彼は土佐藩に殺されたのだと思うと自信ありげに語った。意見が割れていた土佐藩を倒幕にまとめ、薩長同盟や大政奉還など大きなことを次々とやり遂げた男、味方だか敵だかわからない男、下級武士のくせにのぼせ上っている男として嫉まれてもいた。諸説があり本当の黒幕は誰なのか私には分からないが、惜しい男をなくしたと思う。33歳で亡くなったがあと10年位生きてくれたら世の変革にすごく貢献したと思う。
山田方谷は彼が尊敬する人物だという。私は不勉強で全く知らなかった。
1805‐77(文化2‐明治10 73歳没)
幕末・維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,安五郎と称する。備中松山藩の農民出身。新見藩儒丸川松陰に学び,25歳で藩学会頭に抜擢(ばつてき)される。その後佐藤一斎に従学,帰郷し学頭となる。教学振興につとめ藩治にも功績をあげ,老中となった藩主板倉勝静(かつきよ)を補佐してよく幕末期の難局を処理した。維新後は子弟教育に任じ,備前の閑谷(しずたに)学校の再興に尽力した。

人名辞典を引いたら以上のように出ていた。
松山藩の大蔵大臣として財政破綻しそうな藩の財政を立て直した手腕は卓越していた。自分が農民出身であることから農民や貧しい人から年貢を取り立てるのではなく、商人や富裕武士などから税金をとり、さらに新しく収入になることを考え、無駄は節約し、民が幸せになることを第一に考えて、義による政治を行い民衆に慕われていた。明治政府が鉄道を作るとき村民の陳情で方谷駅ができたとのことでその人柄がしのばれた。私は不勉強で山田方谷のことは知らなかったが、知っている人がいても少ないと思う。このような隠れた英雄はもっと広く世に知らしめて行くべきだと思った。





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Last updated  2019.04.10 18:34:45
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