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今が生死

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2024.11.13
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カテゴリ:嬉しかったこと

シバザクラは春咲く花だが庭を見たら今は深秋なのに咲いていた。

12月8日に県民文化ホールで第九の演奏会があると知ったがこんなに遅くなっては券はないだろうと思って電話してみたらまだ券はあるというので有頂天になって文化ホール迄早速券を買いに行こうとしたら妻が「そんな遠くまでわざわざ行く必要がない。セブンイレブンで買えるのだよ」と教えてくれた。早速文化ホールに電話してその方法を聞いた。この電話で購入して頂き番号を伝えるのでその番号をセブンイレブンに示せば券は自動的に出てきてお金も払うことが出来るとのことだった。そのようにしたら手数料を192円取られたがあっという間にチケットを手にいれることが出来た。便利な世の中になったものだと思った。

今年はベートーべンの傑作「交響曲第九番」が初演されてから200年の節目にあたる。最終楽章の「歓喜の歌」は日本でも大いに親しまれている。
ベートーべンは1770年12月ドイツのボンに生まれた。父は歌手だったがひどい酒飲みで一家の生活は貧しかった。しかし彼は幼い頃から才能を発揮して11歳でオーケストラの一員になり、父の代わりに家計を助けた。

16歳の時、最愛の母親を結核で失い失意の存底に沈んだ。21歳の時オーストリアの作曲家ハイドンに師事するため音楽の都ウイーンに渡った。彼は貴族の屋敷で演奏したり、ピアノを教えたりして生計をたてていた。しかし20歳代後半次第に音が聞き取れなくなってしまったのだ。音楽家にとって聴力を失うのは死にも等しいので次第に人前に出るのが少なくなり、密かに治療を続けたがその効果はなく、31歳の時には日常会話に困るほど聴力が落ちてしまった。1802年10月(31歳)に書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」の中で絶望がもう少し大きければ、自らの命を絶っていたと記し、芸術だけが私を引き止めた。自分の中にあると感じているもの全てを生み出すまではこの世を去ることはできない」「忍耐、それを今私は自分の道しるべとして選ばなければならない」と述べていた。難聴以外に経済苦にも悩まされながら創作の手を休めることはなかった。
40歳代半ばになると補聴器を使い、その後は筆談でコミュニケーションをとるようになった。
交響曲第九番は晩年の1824年(53歳)に完成させたがその頃は耳は殆ど聞こえなくなっていた。第九の初演の頃から体は衰弱し、数回手術を受けたが体が良くなることなく1827年3月56歳で人生の幕を閉じた。生命を鼓舞してやまない人生への贈り物「第九」は決して順風の中でなく、逆境にさらされた苦闘から、そして不屈の志から生まれたものだと言われている。そのようないわれを知ったからにはベートーベンの苦痛や願いをよく聴いて来ようと思っている。思いがけなくチケットがとれて本当によかった。






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Last updated  2024.11.13 20:56:09
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