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テーマ:気になったニュース(31010)
カテゴリ:その他
三島氏と石原氏の有名な対談をご紹介して、三島氏への批評とさせていただく。
I それはそうじゃないな。竹内好のなかに前世代的心情と風土があるだけです。 M その風土が天皇なんだよ。 I そうじゃない。それはただ時代と共に、それが変わってきているんだな。 M ぼくは変わってきているとは思わない。ぼくは日本人ってそんなに変わるとは思わない。 I 僕の言うのは、つまり天皇は日本の風土が与えた他与的な者でしかないということで 風土は変わらんですよ。われわれの本質的な伝統というものは変わらないけど 天皇というものは伝統の本質じゃ無いもの。形でしょ。 M だけど君、どうして無いなんて言うの。歴史、研究したか。神話を研究したか! I しかし歴史というものの骨格が変わってきているじゃないですか。日本の歴史の特異点は 日本にとって、いつも海を隔てた大陸から来るメッセージというものがある。 しかしそれは必ずしも系統だっていない。たとえば仏教。 それを濾過することで日本文化は出来たんでしょう。 政治の形は、そんな文化造形の前からあったが、しかしその規制は受けた。 天皇性が文化のすべてを規制したことは絶対に無い。 いずれにしても日本の伝統の本質条件がつくったものの一つでしかないと思うな、天皇は。 M それはもう見解の相違で、どうしようもないな。 つまりぼくは文化というものの中心が天皇というもので、 天皇というものは文化をサポートして、 あるいは文化の一つの体現だったという風にに考えるんだから。 I 文化というのは中心があるんですか。 M 必ずあるんだ。君、リシュリューの時代、見てごらん。 I いや、中心はあるけど、その中心というのはあっちへ行ったりこっちへ行ったりする M それじゃ、リシュリューの時代の古典文化、ルイ王朝の古典文化というものは秩序ですよね。 そして言語表現というものは秩序ですよ。 その秩序が、言語表現の最終的な基本が、日本では宮廷だったんです。 I だけど、その秩序は変わったじゃないですか。 M いくら変わっても、その言語表現の最終的な保証はそこにしかないんですよ。 どんなに変わっても・・・・。 I そこにしかないってどこですか。 M 皇室にしかないんですよ。(略) I 三島さん、変な質問をしますけど、日本では共和制はありえないですか。 M ありえないって、そうさしてはいけないでしょ。 あなたが共和制を主張したら、おれはあなたを殺す。 I いや、そんなことを言わずに(笑)、もうちょっと歩み寄って。 その丸薬、ぼくには飲めない。 M 今日は幸い、刀も持っている。 (居合い抜きの稽古の帰りで、三島氏は真剣を持参していた) I はぐらかさないで。つまり、日本に例えば共和制がありえたとしたら、 日本の風土都下、伝統というのはなくなりますか。 M なくならないと言ったでしょ。 伝統は共産主義になってもなくならないと言ったじゃないですか。 I それをつくった、もっと基本的な条件はなくなりませんか。 M なくなります。 I ぼくはそうは思わない。 M 絶対なくなる。 I それはもっと土俗的なもので、土俗的ということもちよっと?雑物が多すぎるけれど、 本質的なものはなくならないと思いますね。 ぼくは何も共和制を一度だって考えたことはないですよ。 M そりゃまあ、命が惜しいだろうから、そう言うだろうけど。 I 僕だって、飛び道具を持っているからな。 M そこに持っていないだろ。 I あなたみたいにナイフなんか持ち歩かない。 M だけど文化は、代替可能なものを基盤にした文化というのは、西洋だよ、 あるいは中国だよ。日本はもう文化が代替可能でないということが日本文化の本質だ、 という風に僕は規定するんだ。だから共和制になったら、代替というものがポンと出てくる。 代で変わるものだよ。共和制になったら日本の文化はない。 I つまりシステムというのはホントに仮象でしかないね。 M 仮象でいいじゃないか。 だって君、政治が第一、みんな仮象であるということもよくわかっているんだろ。 I ようくわかっていますよ。だけどやはりその中に僕がいるんだもの。これは、僕は実象ですよ。 M もう半分仮象になりかかっているじゃないか。 I そんなことはないよ(笑)。そういう言いがかりはけしからんな(笑)。 M いまのは訂正しましょう。しかし僕も意固地ですからね、 言い出したらきかないです。いつまでも頑張るつもりです。 I 何を頑張るんですか。三種の神器ですか。 M ええ、三種の神器です。ぼくは天皇というものをパーソナルにつくっちゃったことが 一番いけないと思うわけです。戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、 みんなが天皇をパーソナルな存在にしちゃったからです。 I さうです。昔みたいにちっとも神秘的じゃないもの。 M 天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。 それを何か間違えて、いまの天皇は立派な方だからおかげでもって終戦が来たんだ と、そういうふうにして人間天皇を形成してきた。 そしてヴァイニングなんてあやしげなアメリカの欲求不満女を連れてきて、 あとやったことは毎週の週刊誌を見ては、宮内庁あたりが、まあ、今週も美智子様出ておられる と喜んでいるような天皇制にしちゃったでしょう。 これは天皇をパーソナルにするということの、天皇制に対する反逆ですよ。逆臣だと思う。 I ぼくもまったくそう思う。 M それで天皇制の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな つまり非常にむたくではあるけれども、天皇制反対論者をつくっちゃった。 I ぼくは反対じゃない、幻滅したの。 M 幻滅論者というのは、つまりパーソナルにしちゃったから幻滅したんですよ。 I でもぼくは天皇を最後に守るべきものと思っていないんでね。 M 思つていなきゃ仕様がない。いまに目が覚めるだろう(笑)。 I いやいや。やはり真剣対飛び道具になるんじゃないかしら(笑)。 しかしぼくは少なくとも和室の中だったら、三島さんの居合いを防ぐ自信を持ったな。 M やりましょう。和室でね。でも、君とおれと二人死んだら、 さぞ世間はせいせいするだろう(笑)。喜ぶ人がいっぱいいる。 早く死んじゃった方がいい。 I 考えただけでも死ねないな。 注:文中のIは石原氏、Mは三島氏。 長々となりますので、お茶でも用意しておいてください・・・ ーーーーーーーーーーー 三島と石原 ーーーーーーーーーーーーー 石原氏は非常に実存的主義な考え方を持っている人だ、常に自己が中心になって回りが形成されていく、石原氏への最近のインタビューでは、国家はどこになりますか?という質問に、僕の中にあると答えている。 つまり、自分が消えれば国家も無くなるということだ、国家=自分という思いは自然から生み出されたすべての事象を肯定し、天皇だって自然の風土から湧き出したものだという結論に至り、それゆえに流れが変化すれば、制度も変化するとしている。 三島氏は、護るべきものは?という質問に、「三種の神器」と答え、彼特有のレトリックで、天皇制の重要性をここで表現したと思っている。三島氏の言にあるように、天皇制は日本文化を表し、またそれを補完する切っても切れない関係にあり、天皇制がなくなれば日本文化は終焉を向かえると考えていた。 これに対し、石原氏は、なくなっても自分の中に存する日本は決して消えないとしている、ではその自信はどこから出てくるのか? 別の書で、石原氏は日本の精神性は海洋島国であることから生まれたと書いている、 これは風土を最重要事項と考える、実存主義的な石原氏のよく表れた部分であろう。 三島氏にとって大切なのは「天皇制」であったことは、 上記に出てくるヴァイニング女史の例え話でよくわかるのではないか? 彼は、占領政策により腑抜けになっていく皇室制度に怒りと失望を感じていた、 これは昭和維新の原動力となった日本改造法案大綱を著した北一輝思想に非常に近いもの (もちろん、思想的な部分に三島氏が惹かれたのだろう、北の政治理論は かなり高度でしっかりしており、三島氏がそこまで読んでいたかは疑問) 過激に言い放てば、「皇位にふさわしくない天皇は、皇位剥奪、入れ替え」これが「天皇制」を重視して、「天皇」個人を護ることではないという考え方だ。 三島氏は「天皇制」をどうすることも出来ないことは知っており、やれることは、警察予備隊の延長にしかない自衛隊の国軍復活であり、それこそが、日本再生の象徴と考えたのであろう、しかし時代は彼を許さなかった、そう議論に載せることすらこの問題は回避されるほどの状況であったのだ。 ただ、ここで間違えないで欲しいのは、三島氏は「死」を前提に動いており 彼がこの決起が成功すると思っていたかは、甚だ疑問であり、 失敗も織り込み済みであったと考える方が自然であろう。 三島氏には生きて、今の時代で言論で行動を起こして欲しかった。 滅びの美学が彼の中にあったかもしれないが、生きてまっとうな正論を吐くことのほうが美学であると私事ながら感じている。そして正論と理法に基づく正しい行動が出来なくなったら、そのときは身の引き際を考える、それが武士道であると思いたい。 ↑ プログランキングに参加しています、三島文学に触れてクリックもお願いします ーーーーーー 追 記 ーーーーーー 三島氏と石原氏の対談でおもしろい話があります。 三島氏の文学は、徐々に下降しており、あの繊細な表現力が落ちたと石原氏が 三島氏に言うと、それはどういうことだ?と三島氏は聞き返し、石原氏は 「あなたはボディビルなんぞ、見せるためだけの肉体強化に努めた その結果、あなたは確かに表面的な身体の強さを手に入れてしまった。 それゆえに、あなたは本来あるべき、こころの繊細さを表現することができなくなった」 これは、肉体的強さを持った三島氏は、 もうその立場でしか物書きが出来なくなると言っているのであります。 これに対し、三島氏は明確な反論はせず、ほぼ全面的に同意しています。 例えば、私こと慶次が貧乏で飢えから抜け出そうとする状況に存すれば 自然とハングリーでワイルドな作品を仕上げることになるでしょうが 私がその逆境から抜け出して、ぬるま湯に慣れていくに従い、あの研ぎ澄まされた 作品は書けなくなるということです、これは物質的状況が人間のこころを 支配する今の世の中に当てはまるかもしれません。芸術の妙ともいえましょう。 政治的部分において統括すると、政治的意味においては三島氏の決起、 切腹はほとんど意味がなく、彼はその意味をきちんと説明できていません。 三島氏は文学の天才でありましたが、政治軍事は真似事でしかなかったと考えます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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