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カテゴリ:歴史・戦史
昭和19年、戦局が厳しくなり、日本軍は空からの神風特攻隊に続き、 「回天」という人間魚雷特攻隊を編成する。。。。 この作戦は通常の3倍ほどの爆薬を積んだ魚雷に乗組員ひとりが乗り込み操作し 相手艦に特攻するという、自らの命を引き換えにした壮絶なるものである。 話は2年ほどさかのぼる、24歳の松尾大尉は真珠湾攻撃に参加した海軍兵である、 昭和17年5月15日、大尉は伊22潜に乗艦し、シドニーに向けて出撃した。 彼の任務は潜水艦に乗艦したまま相手艦に突撃することであり、自分の命を引き換え に国を家族を守ることを意識していたのだろう、このとき次の辞世の句を詠んでいる。 散りぎはの心安さよ山桜 水漬く屍と捧げ来し身は また、同様にこのとき同艦の乗組員であった都竹兵曹が詠んだ辞世の句は 一億の人に一億の母あれど 我が母に優る母あらめやも 松尾大尉と都竹兵曹が乗りこんだ特殊潜航艇はシドニー沖で豪州艦に体当たりを狙う も、哨戒艇に爆雷を受け昭和17年6月1日 午前5時20分に散華した。 6月5日、オーストラリア海軍は松尾艇と中馬大尉・大森一曹艇を引き揚げるとグル ード海軍少将は収容した四人の日本兵士の遺体を、海軍葬をもって弔うとともに武勲 と忠勇義烈の精神を褒め称える声明を発表する。また、日本国旗に包まれた棺に、二 列に整列した海軍儀杖隊が「敬礼」「捧げ銃」を行い弔銃を発射した。 これには豪州国民から非難の声があがる、敵に対しそれほど手厚い葬儀をする必要が あるのか? これに対しグルード少将はこう答えている。 「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには最高度の勇気を必要とする。彼等の持って いる勇気は、いずれの国民の特質でも、伝統でも、遺産でもない。これらの勇士は最高 の愛国者である。オーストラリア人の幾人が、日本の勇士の千分の一の覚悟を持ってい るだろうか」 この後、4人の遺骨は10月9日に横浜港に丁重に返された。 それから約20年の時を経て、豪州戦争記念館の館長夫妻が松尾大尉の母の元へ訪問し 「全国民(豪州国民)が令息の勇気を尊敬しています」と挨拶、母まつえさんは海軍葬 のお礼を述べ、これがきっかけでまつえさんはシドニー訪問の旅に出る。 夫妻訪問から3年後、83歳のまつえさんはシドニー湾を望める絶壁に立ち、 「よくもこんな狭い所を抜けてシドニー湾を襲撃したものだ。母は心から褒めてあげま すよ。よくやってくれました。」と涙を流しながら亡き息子に声をかけた。 豪州戦争記念館には多くのオーストラリア人兵士が追悼されているが、この中にひとき わ輝くコーナーが設けられている、自国の将兵以上の扱いで「この勇気を見よ」と特殊 潜航艇に乗り、散って行った彼らの様々な遺品が展示されているのだ。 まつえさんはここに訪れ、息子が最期まで肌身離さず持っていた「千人針」を遺品とし て館長から渡された、まつえさんはこらえきれず涙を流し、その様子を見ていた多くの 人々もこころからの涙を流した。 この訪問は豪州では大きく扱われ、各地で歓待され「お母さん」とはまつえさんのことと 間違った日本語を覚える人もいたぐらいである。 日本でこの話があがったとき、マスコミや市民団体はここぞとばかりに、国に殺されたと 声を大にして言うべきだといろいろ仕掛けてきたのだが、気丈な母はラジオで顔色ひとつ 変えず、「息子は立派でした・・・」とだけコメントを残している。 日本人とはかくありたい、大尉は本当は泣きたいだろう、怖くて行きたくないと叫びたい だろう、母も息子が亡くなって陰では枯れるまで涙を流しているだろう、息子に会いたい と叫びたいだろう、でもその気持ちを表に出さず、殉じていく者、見送る者。 しかしいまひとつ足りないものがある、それは政をあずかるものの心持ちだ、上のような 建前を理解し、心底では泣いているこころを汲み取ってあげねばならん、それができる人 間が首相になる日はくるのだろうか、靖国は首相の参拝で揺れているが、果たしてマスコ ミは伝えるべきことを次世代に伝えていこうと努力しているのだろうか。 政治家は新盆回りで票田取りにせっせとこの時期歩き回っているが、軍人一般人にかかわ らず、戦没者にどのような気持ちを持っているのか、遺族の方々にどう接しているのか。 日本がアメリカに負けた日がまもなくやってくる。 爺ちゃん婆ちゃんは当時を思い出して胸が痛むと思うが、孫やひ孫に戦時下の話をしてあげてくれ 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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