|
カテゴリ:日本民俗・宗教哲学
フランスの詩人にポール・ヴァレリーという人がいる。この人の言葉を引用し
ちょっとした日記を書こうと思っていた矢先、毎日のようにお邪魔させていただ いている「神秘家さん」のブログでヴァレリーの言葉が紹介されていた 神秘家さんは著者としての心構えを説くヴァレリーを書いていた、慶次はまた 違う言葉を紹介し、まったく異なった話を書こうと思う 「頭の中で死を考えているのだが、死ぬときの状態を想像して、常にそのリハー サルを行い、のっぴきならぬ指令を実行する影武者を養っている。自殺の動機は、 必ずしもはっきりとした死の願望ではなく、死の方法に対する魅力である。憤死を 考える者は水死をしないし、山で死のうとする者は睡眠剤によって自致することは ない by ヴァレリー 」 天才≒狂人とする自殺者の心理を彼は上のように表し、続けて 「彼らの自殺には美学があり、美しい滝や壮大な噴火口などを選択し、大詰めを 入念に仕組もうとする心遣いがある」とヴァレリーは叙述している。 三島由紀夫は、美しい自然との死を選択はしなかったが、自分の美しいとした行 為により命を絶った。ヴァレリーのいうように、三島は「憂国」や「豊饒の海」な どで何度も大詰めをリハーサルしていたのだ。 幼い頃から体が貧弱で病弱な三島はボディービルや武道で自分の肉体改善に走る、 最終的にそのコンプレックス克服は「武士道」という形に終結し、切腹という死を 美学として彼は選んだ。 このように書くと2つの反応が返ってくるだろう、一つ目は、三島由紀夫を右翼 活動家と捉える人々からの反応だ。 三島は皇国復活のために一命を投げ打ったのだ 、憂国の心を行動に変え、日本を目覚めさせようとしたのだ。 二つ目は三島を作家と敬愛する人々からの反応だ、三島の自殺を血なまぐさい現実 世界でもっとも汚く醜い政治に利用するな、彼の死はひとつの劇であり、それはエロ ティシズムであり、ひとつの完成した作品である。 どちらも、誰かに聞いたわけではない、慶次の中のふたつの仮面がこう言っている。 三島が切腹して数年後のある日、ルバング島である陸軍少尉が発見された、名前を 「小野田寛郎」。 小野田さんは、母国日本に帰国後、米国の傀儡政権でしかない日本国に幻滅し、愛 想を尽かし、ブラジルに渡った。 三島の見た日本と、小野田さんの見た日本は、もしかしたら同じ風景だったのかも しれない・・・ *次回は、小野田寛郎さんについて少し書こうと思います、次回がいつかは知らぬ まあ、一杯馳走いたす 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[日本民俗・宗教哲学] カテゴリの最新記事
|