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カテゴリ:歴史・戦史
ええ、お気に入りブロガー「gundayuuさん」が仕事の関係で沖縄に上陸され
ており、それにちなんで、大田実中将の電文を紹介したいと思います。 (これ、書いたと思ったんだけど、書いてなかったのね・・・ 昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸し、ここに日本本土での最初で最後の 地上戦がはじまった。米軍総兵力約55万、日本軍10万と圧倒的に劣勢を余 儀なくされたなか、牛島中将率いる陸軍三二軍と大田少将率いる海軍根拠地隊 は米軍の猛攻に必死に耐えていた。 しかしながら、本土からの切り札、大和 は出航2時間で海の藻屑と消え、彼らは撤退戦を余儀なくされる。 大田実中将の残した電文に、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という有名なものがある。 大本営が決定した米軍をとめられずとも、少しでも本土への上陸を後らせるとい う作戦を遂行するために、彼らをはじめ、沖縄県民までもが鉄血勤皇隊などを結 成させられ(学徒動員であったが、徴兵年齢に達していない青年も徴兵された)、 1800人近い動員数のうち、約半数が死亡、生存率5割(爆弾を持った特攻な ど)という壮絶なる運命に身を投じている。 このような状況のなかで、本土防衛という作戦遂行のために抗戦してきた大田実 中将は6月13日にもはやここまでと自決を決意、その数日前に海軍次官あてに 送った電文が、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」である。
大田実中将の上記の電文内容を簡潔にまとめると、「防衛に専念することで 沖縄県民を顧みることができなかったが、彼彼女らは、ある者は防衛部隊と して、ある者は衛生兵、看護婦として、感情的になることなく戦地での職を 黙々とまっとうしてくれた。 敵襲来のため長距離の移動を命じたときも、 長距離行軍を続け、この戦争のために節約奉仕を精一杯してくれた。 沖縄島の形が崩れるまで砲撃を受け、焦土と化すのは時間の問題であり、食 料も6月いっぱいまで持つかどうかという状況だ。沖縄県民はこのように立 派に帝國の防衛ラインとして頑張ってくれた。陛下、彼らに対し、後世特別 のご配慮をお願いいたします」、かなり部分的に補説も加えたが、間違って はいないであろう。 このときは天皇主権、統帥権を陛下が持っているので 大田中将はラストに陛下へのお願いとして結んでいる、しかし、いま現在は 国民主権である。私たちが沖縄をどう考えるか、とても大切なことではない だろうか。 1972年5月15日に沖縄は日本にアメリカから返還された、まもなくそ の日が訪れようとしている・・・ *「沖縄県民斯ク戦ヘリ」は、沖縄戦関係資料閲覧室にて参照 旧海軍司令部壕に電文の石碑があります、ひめゆりの塔もありますよ 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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