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カテゴリ:歴史・戦史
「単なる必勝の信念以外の何物でもなく、皇土の荒廃と国民の犠牲を
強要するもので、まづ残存航空部隊と水上特攻隊の体当り攻撃で聯合 国軍の洋上撃滅を狙ひ、ついで上陸してくる敵に対しては、装備の低 下せる兵力と、婦女子にいたるまで竹槍をもって・・・(人の波)で 押し切ろうとするものであった」 「よくやって呉れたと父も母も共に喜んでいてくれます。武人として もつたない程武運に恵まれた死だと深く思っています」 上は、数ヶ月前に、「額で叩き割る空母、神風特攻隊沖縄へ発進」との 見出しを一面記事にしていた「朝日新聞」、下は、今では人権屋弁護士 を助け、日教組批判は許さないといわんばかりに共産党機関紙「赤旗」 よりもさらに左と思われる記事しか載せない「東京新聞」が戦時中載せ た、敷島隊の特攻を褒め称える記事である。 大本営発表による新聞記事統制がこのような記事を書かせたという新聞 側の論理は、満州事変時の彼らの行動によりすべて疑われるものとなろう 日露戦争もそうであったが、戦争、それも勝ち戦を伝える記事は売れる、 バカのように売れる、読売は満州に多くの記者を派遣し、いまの地位を 確保することになる 敗戦後、180度態度が変化した国民と世論 米軍の空襲被害を受けた住民たちは、特攻隊基地があったから空襲を受けた と彼らを非難した、「お前たちがちゃんと戦わないからだ!」といった辛ら つな非難はそこら中から起きたのだ 「特攻帰り」、「特攻崩れ」といった言葉も登場した、特攻隊員の中には 敗戦後、無頼集団の仲間入りをしたものがいた、罪を犯し、悪さをしたも のがいたのだ、しかし考えて欲しい、陸士や将校、学校に戻れる学徒兵なら ともかく、予科練、少年飛行兵組は、学歴もなければ職制も無い、お国のた めと投げ打つ覚悟だった命は、敗戦後は糾弾され、小さくなり居場所も無く なってしまったのだ 1944年にレイテ沖での戦いにおいて初の特攻作戦を成功させたとして軍神 と崇められることになる敷島隊隊長「関行男(つらお)享年24歳」の妻真理 子は関行男の母の強い声もあり、関家から籍を抜き実家に戻った、なぜなら、 戦死当時の称賛に対するねたみや特攻隊員は戦犯になるという噂が流布し、 関わりを避けようとする市民が多くいたからだ そんな180度態度の変わった市民に対し、ジッと我慢し亡き自分の息子のこと を信じ、「遺族等援護法」の成立を待たずして、貧しくひっそりと死んだ母サカ エはつらかったことであろう、もちろん貧しさがではない、お国のために、国民 のためにと思い、死んでいった息子が今では・・・悲しかったであろう 「軍事研究」には次のようなエピソードが載せられている、ある生き残った 特攻兵が戦死した特攻兵とかわした最後の会話の手記である 「それで負けたらどういうことになるんだ?」 「わたしたちが死んでも、国民の何人かは生き残るでしょう、その人たちを 信じて戦うしかないでしょう」 「よし、そうか、生き残った人たちを信じよう」 慶次は大日本帝国万歳とはこれっぽっちも思わない、国家制度や軍事問題 領土拡張への方針に対するクエスチョンなどなど、個別的案件をあげれば キリが無い、しかし、これとそれとは別、どんな方針であれ、その中でさ まざまな思いを抱き、散っていった方々に対する態度まで大日本帝国への 批判と混ぜてしまってはいけないのではないか 日本はまもなく、「敗戦の日」をむかえる *トップページに戦争関連の書物、DVDを並べておきました 8月20日あたりまで掲載を休止します 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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