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テーマ:京都。(6100)
カテゴリ:日本民俗・宗教哲学
とある交差点から東山区方面を写真におさめた、あの山はなんだろう? てくてく歩いていく・・・ 「行人」 下京区を越えるあたりに高島屋、阪急デパートがある、こんな建物 つまんねえとばかりにズンズン歩く・・・ バテる・・・ 京都市役所前にて休憩・・・チラッ ん?・・・ん! ということで次の訪問場所は、「本能寺」 (写真は総門) 1587年に秀吉の命にて、いまの地に本能寺は移転された、現在の京都市役所 あたりも敷地として与えられていたようで、かなり広大な寺院だ 創建は応永22(1415)年、日降上人を開基とする法華宗の寺であり、本堂は 再建ながら、室町時代の特徴をよくあらわしている、現在の本堂は昭和の再建 四条西洞院にあった本能寺に信長が宿泊したのは天正10年5月29日のこと 軍勢の集結を待ち、6月1日に茶会をひらく信長・・・同日、「敵は本能寺に あり」と、主君討ちの炎をたぎらせ、明智光秀の軍勢13000は丹羽亀山城を 出発し、翌日早朝、本能寺を取り囲んだ 信長が物音に気づき様子を探りに 行かせると、「紋は桔梗(光秀の家紋)」との報告が入り、「是非に及ばず」 と信長は自ら弓をとり応戦 ラストは小姓である森蘭丸に火を放たせ、自刃したといわれる 本能寺は種子島にも末寺があり、布教していたので、この本能寺には 多くの鉄砲や火薬が隠されていたようだ、さらに最近の発掘では堀や 土塀が施されていたことがわかり、それなりの城砦機能を持っていた のである、まして東国、西国と信長の近くに敵はおらず、安心して 本能寺に宿泊したのであろう、そうでなければ、誰かが信長を安心する ような手はずを整え、光秀を操ってこのような謀反を起こさせたと推理 するのが妥当ではなかろうか? みなさんはどう思いますか? 山門の横には日蓮上人の像がある、南無妙法蓮華経~ 日蓮は「立正安国論」を幕府に送り、法華経を立てよと執拗に求めている この政治に関ろうとする姿勢は現在、「創価学会」が引き継いでいる 本堂、早朝であったからか、人はやけに少なかった 本能寺前の商店街通りも閉めている店がほとんどで、がら~ん この写真を撮っているあたりに、臥牛石なるものが存在する 臥せた牛に見えないこともない・・・ 法華経信者の加藤清正が寄進したとされている・・・あくまで噂 寺の人が言ってたから間違いない、あくまで噂・・・もう一回 近所の加藤さんだったらどうすんだよ、ここまでたいそうに奉戴してさ 本能寺はとにもかくにも「火事」に悩まされた、そんなこともあり、 本能寺の「能」の字の「ヒ」の部分は「去」という字に似せてある 火よ去れということ・・・であるか 本能寺を後にし、慶次はさらに歩く・・・ ここまで来ると、目指す場所はただひとつ・・・ 次回、旅行日記最終回、おたのしみに~ 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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