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カテゴリ:歴史・戦史
これから不定期連載として書き記すことは決して彼を擁護するために書く ものではない、ただただ事実を書き、判断はすべて読者に任せたいと思ふ 日本軍は陸軍が長州、海軍が薩摩というように派閥すみわけをしており、 要職は薩長が占めていた、そんな中では賊軍の人間の出世はなかった 東條英教は南部藩盛岡の出身で、陸軍大学校一期生首席をとった秀才だ しかし、賊軍の彼が出世を望めるはずもなく、日露戦争後には、「実兵 指揮能力不足」として予備役に編入されている(明治40年11月のこと) その頃、英教の長男英機は必死に勉強していた、それは予備役になった父 を見て発奮したのではなく、指揮官として日露戦争に従軍していた父のよ うになりたいという彼の憧れであった もともと努力家であった英機は、さらに努力を重ね父のように立派な軍人 になりたいと思うようになった、のちにA級戦犯として絞首刑にされる男 「東條英機」、20歳のときのことである 1884年(明治17年)7月30日、東京都青山に生まれた東條英機は、よくいわ れているように几帳面で努力家、細かいことによく気がつき、座右の銘は 「努力即権威」である、この意味について東條英機は外国の格言の翻訳で あり権威はオーソリティーの訳、努力が光り輝くというような意味で用い ているのだと説明している 彼はとても勤勉で生真面目な人間であることは先に書いたが、もう一点、 その自分への厳しさをまわりにも求める傾向があった・・・ 長男であった彼が、弟たちにそれを求めることは必然であり、自分から見 て努力が足りないと烙印を押した弟は相手をせず、ひどくなると家への出 入り差し止めにした しかし、反面やさしいところもあった、大東亜戦争真っ只中、甥の結婚式 に夫婦で出席したときに、「自分は親代わりだな」と親を早くに亡くした 甥を気遣い声をかけている、当然だが、このとき東條は事務多忙、寝る間 もなかったのだ また東條の妻勝子夫人は次のように彼を評している 「英機の性格を一言に申しますなら、まっすぐな人間だったといえますでし ょう。厳格で生真面目な反面、やさしく涙もろいところがございました」 いまでいえば頑固親父、ひとへの優しさをあらわすのが不器用な実直な男だ。 さて東条英機は陸軍士官学校を12番で卒業している、この順位は上位グルー プなのだが、陸軍大学校に一度落ちている、このとき彼はほとんど勉強しな かった。 東條英機は陸大について当時、「陸大を出ようと出まいとたいした 問題ではない、要は帝国軍人としての心構えがしっかりしているかどうかだ」 と答えている。 この言葉や彼らしくもない勉強をしないという行為を見ても 陸大に対して否定的な感じを受ける。 おそらく、父英教のことが頭にあったのだろう、陸大首席卒業の父の不遇さ を見て、陸大に行ったって仕方が無いではないかといったところか。 次回は、東條英機の大転換期、2.26事件と満州へ・・・ 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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