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カテゴリ:歴史・戦史
東條はこの中心メンバー、永田鉄山に師事することになる
彼らのグループは長州閥の宇垣一成に対抗して、九州閥である真崎甚三郎 を担いだ、この真崎の東條に対する評価はとても高かった、メモ魔である 彼が横にいれば、使い勝手がいいのは確かだろうし、東條は部下への気配 りも忘れなかった。たとえば、兵の弁当がかためのおかずばかり続いてお り、兵も疲労のため丸呑みしていることに対して、厳しい演習のさなか、 あのような固めのおかずは喉にとおるまいとして、やわらかめのおかずを 工夫するように主計中尉に注意を促している。 面白いことに東條は派閥を組むという考えがない、それゆえに計算して近 づいてくる人間に対しては嫌悪感を抱く、上官である真崎に対してもだん だん反感を覚えるようになっていった。 これは永田鉄山も同じ気持ちだ った。 真崎甚三郎と荒木貞夫が青年将校を焚きつけ、皇道派の乗っかるようにな ると、永田、東條らは統制派として、これに対抗した。 しかし、陸軍の 体制は皇道派に傾きつつあり、東條も職場をたらい回しにさせられた。も ちろん、真崎、荒木の嫌がらせである。 こんな中、ある事件が起きる、「相沢事件」だ。 これは1935年(昭和10年) 8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、 統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件である。 これにより東條の命運 はついえたといえよう、当時閑職といわれた関東軍憲兵隊司令官に飛ばされ た・・・東條英機、51歳のときである。 しかし、人生とはわからないものである、この翌年、かの有名な2.26事件が 起こり、東條は絶大な権力を得ることになる。 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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