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カテゴリ:日本民俗・宗教哲学
八幡神社には、なぜ応神天皇が祀られていると思いますか? さくらんぼのハハさんの日記を読み、これは小学生には難しいと唸りました 学会でも結論は出ていない、八幡様の出自と広まり・・・ 八幡神社は全国津々浦々にまで広まり、神社本庁報告では1万5千ほど、 稲荷神社に告ぐ神社数だが、小さな神社も合わせれば確実に八幡が全国 一位であると思われる 八幡様の大元締めはどこか??? 答え「宇佐八幡宮」(現宇佐神宮)だ 全国の八幡宮の頂点にたつ、「宇佐八幡宮」は明治4年以降、明治政府に より名称を「宇佐神宮」と変更される 八幡大菩薩といわれるとおり、神仏習合の草分け的存在とされる八幡宮の 祭神は、「応神天皇、神功皇后、比売大神」であり、ここに応神天皇の父 仲哀天皇や御子の仁徳天皇を一緒に祀っている場合もある 応神天皇は71歳で即位、在位40年で111歳で崩御と、長生きか!と突っ込 まざるをえない伝説的超人天皇 神功皇后は新羅征伐中に産気づき、卵形の美しい小石を二個、腰のところ に着けて呪いとし、出産を遅らせたのだ、結局筑紫の国に帰って無事出産 もともと、霊的能力の高い女性が神の子を産む=処女受胎の信仰は日本の いたるところで見受けられ、とくに九州で広く信じられていた 八幡の出自は不明だが、土俗的な信仰としての八幡の地を大和朝廷が侵略 した後、隼人をおさえるために武神としての傾向を強め、八幡神を武神の より所と捉え、さらに朝鮮を媒介とする大陸への警戒として抑えの宮とし た、これは神功皇后の香椎宮も同じである、新羅征伐を行った彼女を南の 砦の守護神とすることは当然であり、その子の応神天皇も然りだ ここで首をかしげる方に念をおさせていただくが、日本神話の神々が祀ら れるのは大和朝廷の侵略のあと、当然だが正当性を示すためにである もちろん、それまではシャーマニズム信仰が集落や邑で浸透しており、 朝廷の侵略後、吸収していく形で、各地に神々が点在していくのだ 以前、ぢんさんに勧められた本で、「竜の柩」というノンフィクションの 中に、「アラハバキ神」が出てくる、この神はもともと土着している精霊 信仰の神として祀られていたのだが、侵略者の信仰する神々に取って代わ られ、いつの間にか「客人(まろうど)神」として扱われている アラハバキ神社の分布図からして、蝦夷の信仰する神であったと思われる 残念ながら、敗者の記録は残されないものである、真相は藪の中・・・ 八幡に話を戻すと、応神が誕生した際に、それを祝福して天から八本の幡が 降ってきて、産室を蔽ったとある、そこから八幡=応神天皇と唱える人も いる、まあこの辺も後付けでしょうな、平安以降にしか出てこないですし 八幡といえば、弓削道鏡と和気清麻呂の神託事件が有名で、国家守護、皇室 守護の八幡が、快僧道鏡を葬ったのは痛快である、そんなこんなで平安京の鬼 門の守りは比叡山だが、裏鬼門の鎮めとして、宇佐から八幡神が勧請され、 岩清水八幡として祀られる 源義家は八幡神を深く信仰し「八幡太郎義家」といわれ、奥州征伐の際、 鎌倉の由比に八幡神を祀ったものを、後に源頼朝が源氏の氏神として整備 したものが鶴岡八幡宮 また八幡神の護国の性格ゆえに、元寇のおりは、福岡の筥崎八幡宮が怨敵 調伏の祈祷の拠点となった、このように常に国家守護の色を濃くしていった 八幡様は武家政権の広まりとともに、庶民へも広まることとなる さらにその武神としての強さから、疫病をやっつけたり、貧困を握りつぶす強 さをも持ちえる強力な神として、様々な御利益を与えてくれているのだ 八幡宮のHPに行ってみても、どこも書いてあるのは同じようなものだ 「記紀」を拠り所とした記述が多い点は、戦前と変わらないではないか 世界各地の土着信仰は似たりよったりである、文明の発祥地から各地に伝承 されたというよりは、シャーマニズム信仰は同じような段階を経て育って いくものだと思う、いや育つというよりは、人間は宇宙の真理のなかで 常に生活していたのだろう、それが集落→邑→政権、というふうにかたまり が大きくなるに反比例して世界は細分化されてしまっているのだ たったひとつの真理のなかで生活していた生きとし生けるものすべてが、 分派し、つまらない正当性を押し付け合い、世界各地で紛争を起こしてきた また、ひとつに戻る日は来るのだろうか、八幡様~南無南無~(-人-) P.S 八幡様から話がずれているようにも思えますが錯覚でつ 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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