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2007年12月08日
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カテゴリ:歴史・戦史
1881年3月、ハワイ国王カラカウワは世界一周旅行の途上、横浜港に到着

した。 彼が横浜港から赤坂離宮に到着するまでに目にしたのは、白人

ではなく純粋な日本人が街を動かし、国を運営する姿であり、入植して

きた欧米白人により王国を蹂躙されようとしていたカラカウワ王は日本に

来て、ひとつの決断を下した。


3月10日の夜、王は明治天皇との会見を乞い、3つの願いを申し出た。 

ひとつ、日本人移民の実現。 ハワイ人の人口減少を同一種族である

日本人の植民で補おうというもの。

ふたつ、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族・山階宮定麿親王

との婚約の申し入れ。

みっつ、ハワイと日本の友好によって、将来の太平洋の発展に寄与したい。


しかし、ペリーの砲艦外交により開国した日本は、あれからまだ14年しか

たっておらず、米国と事を構える力は無い、そこで再三再四、要請を受け

ていた、ひとつめの移民提案だけを受け入れることにした。

国王は大喜びし、移民団を歓待した。 20世紀初頭にはハワイ人口の約4割

が日系人になったのだ。


この不穏な動きを察知したハワイの米人勢力は新憲法を起草し、武力を背景

に王に承認の著名を求めた。 この新憲法は資金を持ち裕福な米人たちが国

政を牛耳ることができ、王は議会(といっても米人が占有している)の承認

なくして勝手な行動は許されないのであった。

1891年、カラカウワ国王の跡を継いだリリウオカラニ女王は米人の突きつけ

た土地所有者に限り選挙権を持つ(ハワイの人口の2/3であるハワイ人は土

地を持たない)という米人に有利な新憲法を破棄し、すべてのハワイ人に選

挙権を与える新憲法を発布しようとした。

ハワイ人たちも、宮殿前にて女王を支持し、白人に対しデモをおこなった。


これを待っていたとばかりに白人勢力は、ハワイの米人保護を名目に軍艦を

米国は派遣し、海兵隊が宮殿を取り囲む。 そう、王制打倒の動きである。


女王は流血を好まず、王制を放棄した、米人は星条旗を掲げ、本国のフォス

ター国務長官にハワイ併合を進言したのだった。


この混乱の中、米人たちが畏怖する出来事が起こった。


アジアの小さな島国国家日本から巡洋艦「浪速」と「金剛」が、ホノルル港

入りをしたのだ、浪速の艦長は若き東郷平八郎であり、米人の建てた新政府

には挨拶もしなかった。

入港の理由は邦人保護であったが、女王からの要請があったともいわれてい

る。 いったん帰国した浪速は1年後、再来港した。

新政府は「浪速」に、新政府設立一周年の21発の祝砲を撃つようにと要請

したが、「浪速」は、「理由を認めず」と突っぱねた。 この東郷の行動に

各国の軍艦も右へ倣えをし、一周年記念は喪に服するような静寂な日だった

という。

ハワイ人の間では、この東郷平八郎の行動に感銘を受け、「トーゴー」とい

う名を子供につけたり、「ナニワ」を「ありがとう」という意味で使ったり

した。


アメリカは、ハワイ、そしてグアム、その後はフィリピンを抑え、残る太平

洋の邪魔者「大日本帝国」を潰すことに照準をしぼった。

1911年のアメリカが作成したオレンジ計画には、満洲に関する日米の確執を

予言し、中国市場を独占するために、日本を封じ込めて暴発させ、「息の根

をとめる」までのシナリオが正確に描かれている。


日本は、1941年の本日、真珠湾(当時はアメリカの州ではないので、本土を

攻撃したのでは無く、植民地を攻撃したことになる)を攻撃し、その後、徐

々に追い詰められ、オレンジ計画の通り、息の根をとめられた・・・


追記

 東條英機は「極東国際軍事裁判」において、真珠湾攻撃の計画を知らなかっ
たと答えている。 

 彼は攻撃が行われる日時は知っていたようだ、知らされたのは一週間前。
陸軍と海軍は重要な案件は知らせなかったことで有名だが、共同謀議の罪を
問われた東條英機、それも首相という立場にあった人物でさえ、このように
情報伝達はずさんであった。

 彼は、天皇の責任回避に尽力するために絞首刑になることも恐れない気持
ちで、この裁判に臨んでおり、東條の性格からしてもこの場で嘘をつくこと
は考えられず、彼は詳細な計画を知らなかった真珠湾攻撃の責任までも首相
という理由だけで糾弾されている。



昨年12月7日に書いた「 ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ 」
もあわせてお読みいただきたい



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最終更新日  2007年12月08日 16時34分34秒
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