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2007年12月15日
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カテゴリ:歴史・戦史
東京裁判で極刑に処せられた7人のうち最年少であり、唯一の中将

であった、「武藤章(あきら)陸軍中将」は、シナ事変後の戦線拡大

路線派の筆頭であり、不拡大派筆頭の石原莞爾を論理的に打破した。

彼は陸軍大学を優秀な成績で卒業し、開戦当時の肩書きは軍務局長であ

った。

軍務局長とは、陸軍大臣の政治活動の参謀役を担う重要なポストであり、

エリートの中のエリート、また、武藤自身がエリート将校風を吹かせる

ようにみえるので、人気がなく敵も多くつくった。

友人である矢次一夫が武藤に苦言を呈すると、彼はこう答えた。

「自分に対する不評や非難はよく承知しているが、執務上の酷しさ、仕事

の上での合理性を貫くためには、憎まれることを恐れていてはできない」


こういう武藤だからこそ、東條に正面からものを言うことができた唯一の

存在だったのだろう、しかし、武藤も東條に、前線に送られることとなる。


そう、東條は気に入らない人物を人事異動と称し、戦線の真っ只中に送る

東條人事をここでもおこなったのだ。


日米開戦の翌正月に矢次と武藤は酒を呑んだ、そのとき、議論になり、

勝算がないのになぜ開戦に踏み切ったのかという質問に、武藤は、

「戦うべき時に戦わなかった国家は、相手国の屈辱に甘んじる結果、

国民は志操を失い、領土や資源の多くを奪われる」と答えた。

負けるとしても武器を持つものは戦うべきであり、恥に生きるより義に

死ぬべきであるという軍人特有の論理に矢次は反論したが、議論は平行

線であったという。

ここで確認しておきたいのは、武藤は対米開戦反対派であり、戦力比

から、陸軍の中でもっとも強く対米開戦回避に尽力したのである。


なぜ、武藤はいわゆるA級戦犯として極刑に処せられたのだろうか?


判決理由は一部捕虜虐待となっているが、根拠がうすく、絞首刑にまで

いたる理由にもならない、これには中国が武藤の極刑を強く望んだことが

影響したといわれる。 武藤のシナ戦線拡大論が大きなウェイトを占めた

のだ。


東條にスマトラにとばされた武藤は、翌年、マレーの虎と怖れられた

山下泰文に請われてフィリピン防衛14軍の参謀長として赴任した。

この地で敗戦を知り、武藤は切腹を申し出るが、諌められて生きながら

える。


東京裁判で、武藤は矢次に言った。


「アメリカは、宣伝価値のある何人かは必ず絞首刑にするだろう。

その中に加えられれば、比島で死ぬはずの僕にとって・・・光栄

をこそ喜ぼう」

武藤章  享年56歳



      




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最終更新日  2007年12月15日 10時57分34秒
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