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カテゴリ:歴史・戦史
かなり間があいたが、シリーズ東條英機を続けます 日米交渉をめぐって陸軍大臣と対立し、近衛は内閣総辞職し、陸軍大臣 であった東條が首相となったことで、アメリカ側は戦争を意識する 近衛内閣は陸軍を抑え込むことが役割だったのだが、第一次~三次までで 陸軍の北支派遣を決定、国家総動員法制定、対支和平交渉を打ち切り、 基本国策要綱(大日本共栄圏の確立)を発表、大政翼賛会結成、 日独伊三国同盟締結、日ソ中立条約締結、帝国国策要綱(対米戦含む)を 御前会議で決定・・・ 国民に大人気だったプリンス首相は、組閣後、陸軍の言いなりになり 軍事予算は上昇、国民の生活は困窮していく、日本政治史上、もっとも 国民をがっかりさせた男といっても過言ではない 対米回避ではあったが、対支積極派だった近衛公は、二個師団派兵が 決まった夜に、大パーティーを開いた 戦後に徳富蘇峰は次のように書いている 「公は、自らその責任の解除を努め、その責任を他に向かって、嫁せ しめつつある・・・自分は近衛公には向かっては、まったく失望した 到底同情したとて、援助したとて、物になる人ではないということを 諦めた」(徳富蘇峰終戦後日記) 戦後、GHQに擦り寄る近衛に対しマスコミ、国民の声は厳しかった 主張や思想もころころ変わる近衛文麿に居場所はなかった まだ総合誌だった頃の、「丸」に電力王松永の貴重な近衛評が載って いる、松永が第一次大戦後のパリ講和会議に出席する近衛に随員として お供し、相手を務めたときの話 近衛がパリのカフェで奢ると聞き、あの近衛公が奢るのかとビックリし 珍しいこともあるものだと感心してコーヒーを飲み、いざ勘定となった ところで・・・結局、松永が支払った また、ロンドンの高級娼婦と待ち合わせをしていたのだが、風邪をひい てすっぽかした、松永は女性のところに行き、謝りに行ったのだが、 実は、近衛は他の女のところへ遊びに行っていた、そればかりか、松永 が問いただすと平然としていたという、松永の近衛に対する感想は、 「この男はいかん、正直な男ではない」だった(1953/8号 「丸」) 遊びで来日したチャップリンに、公式の挨拶が無いとして無礼だと 公言した近衛文麿は、戦争末期、天皇陛下に、アカが軍を支配して日本 を共産化するために戦争を続けて皇室を潰そうとしているという奇怪な 論理で埋められた、「近衛上奏文」を手渡した そして、サイパン島が陥落した際に、東條内閣に対する世論が厳しく なったとき、このまま東條に内閣を任せ、全責任を負わせるのがよい と発言している 戦後、GHQから憲法草案を依頼される一方で戦犯に問われた近衛文麿 は、出頭命令期日の朝に青酸カリを飲んで自殺、世間の目は醒めていた *ところで、みなさんの携帯の着メロ(着うた)はなんですか? 慶次はソフトバンクのCMでお馴染みの、ヒラリー・ダフの唄う 「ミッキーマウス・マーチ」です♪ 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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