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カテゴリ:歴史・戦史
昭和20年3月10日、東京は火の海に囲まれ、多くの民間人 犠牲者が出ました。 これ以前に、1月23日には 有楽町・銀座地区が空襲を受け、かなりの被害を受けましたが まだまだ元気な東京は、その後それなりの生活を 楽しんでおりました。 3月9日も、昼間は何事もなく 空襲警報に注意をしながらも、子供たちは走り回って 暮らしておりました・・・ そして、「悪魔」が東京を襲いました。 3月10日に切り替わった零時七分、ゴーッという 不気味な唸り声と共に、サイパンを飛び立ったB29爆撃機 325機は東京に来襲しました。 落下された「焼夷弾」は内部にM69というナパーム剤を 含んでいまして、これが48個束になっており、空中で 散舞するのです。 揺れをとめるリボンもついており、 このリボンに火がつきますので、あのような「火の雨」 が降ってくるように見えるのでした。 米国は日本の家屋、畳・ちゃぶ台に至るまで自国で作り、もっとも よく燃える焼夷弾を研究していたのですね、それはそれは恐ろしい 絨緞爆撃でした。 墨田区江東地区は二千トンの焼夷弾が次々に落とされました、 米軍は、東西五キロ南北六キロの範囲に焼夷弾を落として火で取り囲み、 人々の逃げ道を塞ぎました、そして一平方メートルあたり、三発の 焼夷弾を落としてすべてを焼き尽くしました。 人々は、取り囲まれた火の中で、苦しみながら死んでいきました。 写真は、お母さんと子供でしょう、子供は絶命したあともお母さんの 背中にヒシとしがみつき泣いたことでしょう、お母さんの背中の部分が 白く見えることが、それを物語っております。 たった一夜の三時間弱の爆撃で、死者十万人以上、負傷者十一万四千人以上 戦災家屋は二十六万を超えました、あちこちに黒焦げの死体がありました。 川も道も、死体で埋め尽くされたのです、前日までの光景とは一変しました。 「無差別爆撃」を命令したカーチス・ルメイ少将という人は、 核爆弾を落とすことにも関与した人ですが、それまでの精密に 武器工場などを破壊する空爆をやめ、たくさん殺そうよと 作戦を立案して行った人です、当時の戦災を受けた方に聞いてみて ください、「鬼畜ルメイ」と話してくださるでしょう。 当時の「ライフ」誌には、次のようにあります 米国人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、ジャップに対しては 憎しみが自然と湧いてくる。 これは、かつてインディアン達と戦ったときと 同様に、自然なものだ。 また、米国内では、日本の武器工場の位置などを正確に把握していましたが、 日本人はもしかしたら隠れて家屋内で武器をつくっているかもしれないと 噂を広め、納得して無差別攻撃を正当化して、このような作戦をすすめたのです。 東京だけでなく、全国の方々、今日、一分間、東京の方角にあわせ 黙祷を捧げてください、「苦しんで死んだ方々」に対し、少しだけ 自分の時間を捧げてください、「公」の気持ち、よろしくお願いします。 (あとがき) 戦後、ルメイは航空自衛隊に対する貢献を評価され、佐藤栄作首相当時に勲一等旭日大綬章を 受けました、日本政府は空襲よりも鬼畜ルメイを評価したのです、笑うしかありませんね。 二枚目三枚目の写真は、当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏が撮影した現場写真であり 彼は、GHQの提出命令を拒否してこの数々の写真を守り続けた方であります。 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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