五大力菩薩 こぼれ話
五大力船のマンホ-ル蓋と五大力船
舌足らずながら前にも触れましたように、わが祖先たちは五大力などのように五がついた言葉だ大好きであります。
1. 千葉県船橋市の素晴らしいマンホ-ル蓋
こんな形で市当局が広報している例も少ないかもしれません。
国の推奨で、マンホ-ル蓋に自由にデザインしてよいところから、全国に4000~
5000か所あるマンホ-ルは,それぞれの都市が知恵を絞ってデザインしたマンホ-
ル蓋で覆われております。
同時にそのマンホ-ル蓋も観光事業の一環として、彩色されたものがその都市、町
、村の観光コ-スにある道路などに設置されたと思われます。
松本市のてまりを彫りこんだマンホ-ル蓋のデザインも優れた物の代表かと思います
がこの船橋市の五大力船のマンホ-ル蓋に出合ってしびれました。
すごいとしか言いようがない。
江戸時代から昭和にかけて東京湾や隅田川、堀などで、海から川化で積み替えなし
に多くの荷物を捌いた船で、往時の船橋市など東京湾内の諸港湾では、その恩恵な
しには生活が成り立たなかった。
そんな、いわば大動脈をマンホ-ル蓋にした船橋市当局や該当部局の見識には頭
が下がります。
なんで五大力船と命名されたかについては、小さな船の割には、たくさんの荷物運搬
ができたそのすごい力が五大力菩薩みたい・・・
と江戸市民が思ったことでしょうね。
2. そもそも五大力船とは、その実物にせまる。
実写ではないようですが、ほぼ実物に近い姿のようです。
ブログ 「海事博物館 ボランティアあれこれ」 の写真及び情報をお借りしました。
江戸時代、人口100万人という世界一の大都市人口を養うために運搬される荷物
は、港湾の活用が第一で第二が無いに等しい。
北前船とか上方からの500石とか1000石積みの巨大船は、江戸湾に入ってから積
み替えが必要であり、
それとは違う働きがこの五大力船にはあったということでしょう。
この度、五大力菩薩像の写真を元にあれこれ書き、ブログかする中で、集めた資料の中デこの素晴らしいマンホ-ル蓋に出合いましたので紹介させてもらいました。
マンホ-ル蓋のカラ-版を改めてネット検索したところこれまた沢山の力作がありました。
しかしながらこの船橋市の五大力船のマンホ-ル蓋の如く歴史が如実に表されている例は少ないと思いました。
参考情報:
小説家 山本一力氏著書
「菜種晴れ」
江戸時代末、江戸深川と千葉・勝山が話題の中心ですが、この両地域を結ぶ足として
船があり、五大力船も出てまいります。