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カテゴリ:観光・旅行
再び篠山の24方位を刻印されたマンホ-ル蓋が、実生活でどのように利用されていた のか、考えてみた。 昔は、マンホ-ルも無ければその蓋もないが、このマンホ-ル蓋に24方位を選択した くらいだから、実生活ではかなり慣れ親しんだものだと思われる。 ネット検索で見られた24方 日本に中国の暦が入ってきたのが5世紀とか6世紀の頃とか(記録の上では) 中国は広大な面積の中で暮らしており、その方位を知らなければ、何事も成り立たない 所ので大昔から方位の研究とそれを形に表すことに熱心であったと思われます。 しかし、国が広いし、人との考え方にも差が出ていくつかの表現方法があらわれたか。 それが西暦で2世紀頃にはこのような方位が統一完成したらしい。 それが記録は残っていない時代から朝鮮半島経由で日本にも伝わり、次第に応用され たものと思われます。 2. 実例として参考的に示されたいたのが:古今集に見られた和歌 喜撰法師の和歌 「わがいほは 都の辰巳(南東) しかぞすむ 世を宇治山とひとはいうなり」 ウイキペディアなどで試みられているこの有名な和歌の意味をここでご紹介する 力もありませんが、平安京の都から見て南東に当たる宇治に隠遁した生活を送る 古今集は10世紀初頭の頃の撰。 少なくとも東西南北はそのまま活用されていたと思われますが、このように東南に 当たる方向は、「辰巳」という呼び方がかなり普及していたものと思われます。 3. 24方の角に当たる方位の読み 南西 ひつじさる 未申 北西 いぬい 乾 4. 篠山の24方を刻印したマンホ-ル蓋 上の写真との対比もすっきり出来たのにその点残念。 その中のマンホ-ル蓋の部分 東西南北も刻印されておりますが、24方の文字はきちんと刻印されている 但し、外の4隅も東西南北に合わせているかに見えます。 篠山の24方のマンホ-ル蓋からヒントを得て、昔の人々がこの24方位をどのような形 で生活に生かしていたか、資料で探しましたが、この程度しか分かりませんでした。 しかしながら5世紀から6世紀には日本にも伝わったということは、かなり普及していた ものと思われます。 ※ 尚、このマンホ-ル蓋は1991年(平成3年)に設置されたようです。
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最終更新日
2014年01月10日 07時30分21秒
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