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テーマ:今日の出来事(292940)
カテゴリ:話題
1995年 平成7年1月17日 05:46 いつも通り朝飯を食べながらテレビを見てい た。59歳と7か月だった。 数十年のしきたりで,その時間は家内や子供たちは2階で熟睡中だった。 多分ド-ンと言う音と共に上下と左右に揺れる激しい動きで腰掛から身動きもならず 食卓の端をつかんだまま揺れに揺れるのに耐えるのが精いっぱいだ。 4.5mほど離れた位置におかれているテレビも激しく揺れ、戸棚の上に飾っていた シンガポ-ルのマ-ライオンの置物などが、す-と落下するのが見えたが、しばらくす ると停電で辺りは真っ暗になってしまった。笑い事では無いが雨だれを見ている感じだ 4mほど離れた位置にあったピアノの上に載せていたA4の紙が食卓の下まで来てい たので、仮にピアノが飛んだら私はどうなったか? 今に至っても話題になるのは、家内や子供たちの誰かが2階寝室で恐怖の声を放って 子供たちは生まれて初めての体験だからそれも仕方がないことかもしれない。 で、その日、それから後どうしたか? 会社人間の私は次第に明るくなる中で会社行の支度を行い、06:30頃、家内が 運転する車で家を出て新三田駅へ向かった。 だいたい06:45乃至06:50頃の電車で大阪:梅田へ向かう為で、停電中にホ-ム へ上がって電車を待った。 同じような行動の方々が何人かホ-ムへ上がってきた。 結果的にはあの惨事でしたから電車は不通であり、やむを得ず自宅へ歩いて帰った 3km弱の道のりだが、多分この辺りは家屋の倒壊、損傷は無かったはずであり、 昭和21年12月21日早朝4時過ぎの「南海大地震」や東京勤務中に出合った数回の 地震の事を思い出しながら歩いたと思う。 1. その日から18日にかけて。家の車で大阪へ通勤の道を探したが、あらゆる道が 車でふさがり、とても我々では大阪まで車で行くことは無理と思い断念。 2. やがて回復した電気により、テレビを付けっぱなしにして地震の様子を見守った。 ご承知の様に次第にその被害、惨状の様子が報道され、神戸の火災などが報道 され、あの「菅原市場」などの悲惨な有様を見せつけられた。
3. 記憶に間違いなければ、19日になって大阪へ出かける方法が見つかった。 JRの福知山線の電車で福知山まで逆行し、福知山線から特急電車で京都市へ 4. 会社へ行ってみると、大阪並びに大阪へ通勤可能な皆さんから17日から19日ま での会社の惨状とそれをいかにして整理しかたか、あなたのデスク周りの戸棚など 資料の収集と取敢えずの整理などにかんして如何に奮闘したか聞かされた。 5. その夕方の帰宅方法については、朝のル-トか、福知山線の全線通行はまだ 無理だったので、社員からご自宅への宿泊を勧められた。 勿論そんな事に甘えておれる状況ではないので、阪急電車の宝塚線と復旧した 個人事をグダグダ書いているとお腹立ちの方も居ると思うが、三田市界隈から三田市 の外へ仕事などで出る方々に共通した、いわば普遍的な共通体験だったので、今 19年前を振り返っても鮮やかにその時のことがよみがえります。 1. その一つが、江戸時代など昔も三田市から外部へでるル-トは? 孤島”だった。昔も荷馬車は通れず、牛の背に荷物を括り付けて運ぶ道が正規の 道だったらしい。その流れがこんな震災時にももろに出ている感じだった。 の道でさえ、とっさに利用して知っている陸運業者などの車で大混乱でとても その日初めて思いついたような電車通勤者が入り込める雰囲気で無かった。 2. 我が家は平成元年に大阪・吹田市からの転居でしたが、その前はこの阪神淡路 大震災でもろに被害をこうむった神戸市東灘区で暮らした体験があり、かつ、会社 の同僚や高校の同級生、甥などが現に住まいしていたので、17日の地震後はテ レビを付けっぱなしでニュ-ス・報道を見続けた2日間だった。 3. 国道43号線の上を走っている高速道路が揺れうろいて横倒しに倒れた風景は その後マスコミにも登場したのでご存知の方も多いと思うが、この道路の下を 昭和39年から51年まで阪神芦屋駅まで歩いて通過して、通勤したし二人の子供 た。元々住んでいたある企業の社宅は鉄筋コンクリ-ト建て4楷の建物だった ので無事だあった、 しかし同じ東灘区のJR沿いの地区に暮らしておられた会社の仲間先輩が沢山 中には近々ご夫婦で郷里へ帰ることを決めて準備していた同僚のご夫婦が共に 犠牲になるなど信じられない日々だった 4. 新幹線の新神戸駅下からJR芦屋駅の間を歩いて慰問などを行った。 あり 水や食料を持参してにお見舞いに出かけた、 新神戸駅付近から御影までおおよそ8km、いったん海の方へ坂を下り途中から 左折して御影へ向かったが、途中は倒壊した家から中の人間を救出したと思われ 17日の次の日曜日はまだJRは完全にストップしており、御影から新神戸駅まで また、8kmの道を歩いて引き返した。 その内、JR芦屋駅から大阪方面は開通したので、それからは芦屋駅まで歩いて 向かった。 高校の同級生のお宅も御影にあり、そのお宅は所有していた車を押しつぶして 5. 神戸市御影もその高級住宅地としてたぶん日本全国でも有名であると思うが、 芦屋市はその上を行くような有名ぶりであります。 昭和39年から昭和51年まで我が家が居住していた神戸市深江南町は川幅が 1.5mぐらいの溝が境であり、芦屋の海際の町は川の両サイドともに神戸市民 の散歩や桜の花見場所でもあったので、気分は芦屋市民だった。 その町を東西に通り抜ける国道43号線の上を走る高速道路が完全に倒壊 したのですから、車の移動が大変という事もあったが我々市民の気持ちもかなりな 落ち込み様でした。 三田市は場所にもよるのでしょうが、おおよそその震度は5から6程度であったかと 思います。我が家もあちこちにひび割れやゆがみがありましたが、倒壊は免れて今日 朝日新聞のトップ記事から阪神淡路大震災の事を振り返り、今回は主にこの盆地状 三田市から市外への災害時の交通並びにその出かけた先での事について思い出して 書いてみました。 中国縦貫道に沿って大断層が走っているので、この阪神淡路大震災においては六甲山 の裏側に当たるこの界隈はやや被害は少なかったと思われますが、この中国縦貫道 沿いの大断層が動いたら…と考えるとけんして楽観を許さない環境下に住んでいると
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最終更新日
2014年01月18日 15時51分59秒
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