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テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:映画
友人の薦めで「北の零年」を見たのだが、どうにもひどい話しだった。
キャスティングという意味でも吉永小百合と渡辺謙は名優ではあるが、開拓するには年がいきすぎているし人間的にも完成されすぎている。 若さ故の荒削りさがあったほうが役柄的にははまったのではないだろうか? 人としての未熟さを感じさせたほうが後の変節にも納得がいくというものだ。 吉永も渡辺もどっしりとゆるぎがなさすぎる。 映画の内容には自立と依存についていろいろと考えさせられた。 日本人は伝統的に自治よりも統治されることに慣れている。 それはとりもなおさず自立よりも依存することと言い換えられる。 分をわきまえ主君に仕えることがよしとされ、目上の者に刃向かうことは道義的にも咎められる。 だから旧来の価値観が崩れ去って、仕える主君を失くした侍たちは泣きながら「これからは自分たちの国をつくるのだ」と言って髷を切るのだ。 しかし、主君の代わりに現れたのは明治新政府という支配者だった。 「決まったことだから」と紙切れ一枚で、血のにじむ思いで育ててきた馬を渡せと役人は迫ってくる。 吉永はこれを毅然と断るのだが、それは反乱と断ぜられる。 最終的には銃を持った明治政府の兵たちと鍬を持った村人たちが対峙することになるのだが、あるできごとにより最悪の事態は避けられる。 そして村人たちは自分たちの国への思いを新たにして土地を耕しはじめる。 このラストシーンでの解決にならない解決がいかにも日本的でいやになる。 新たに土地を耕したところで役人は再びやってくるだろう。 そのときはどうするつもりなのだろう? また幸運にも衝突が避けられるとでも思っているのだろうか? いつか自分たちの国がやってくるのを夢見ながら、じっと耐えしのんでいくつもりなのだろうか? アメリカはもともと開拓によって創られた国だが、自分で開拓した物はもちろん自分たちの物にしていたはずだ。 それでも法律は必要だし利益を生まない公共サービスも必要だった。 そのために税金を出すことで、そうしたサービスを委託したのが政府にすぎない。 だから驚くべきことにアメリカの憲法には、もし国家が国民の権利を侵すようなことがあれば国民は国家と戦争をしてもよいと取れることが書いてある。 アメリカ人が銃の所持にこだわる理由はここにあるわけだ。 「自由を与えよ!しからずんば死を!」というわけで、彼らにとって自由のために死を前提に闘うのは当たり前なことらしい。 日本人はそんな血なまぐさい解決を好まないから、よくわからないラストシーンになってしまう。 お上や忠義という意識を捨て去らなければ本当の意味での自立や自治、ひいては社会に参画するという意識は生まれないだろう。 アメリカ張りに小さな政府を標榜するなら民間に権限を委譲することになるだろう。 社会的な構造が変革したからといってどれほど人の意識が変わるのだろう? 忠義ではなく契約によってかかわるということは日本にとっては大変な変革であるはずだ。 お上も忠義もいらないなら天皇さんもいらないんじゃない? そうしたことを踏まえたうえで現政権が構造改革を進めているとも思えない。 結局、政官財はばっちり癒着していながら、貧乏人には自立しろと言って見捨てているだけの見せかけ改革なんじゃないか。 「おまえら自立しろ!だけど愛国心を持て!」なんて、虫が良すぎるんじゃない? でもそうした状況を許しているのも自分たちの依存心にあると思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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