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カテゴリ:考え事
この世の全てはパズルの一片のようにバラバラのように見えるけど
この世は完成したパスルのように理路整然と並んでいて 全てが規則的に、美しく、並んでるものだと そう思っていた。 全てを論理という檻で囲って、その中で考えていた。 それが最善だと考えていた。 私の考えになんの疑いも持っていなかった。 論理は最強だ。 2つまたはそれ以上の相反する選択肢のなかで、あらゆることを考慮して、メリット・デメリットを考え、最も良い選択肢をセレクトする。 あらゆる物事を数値化し、天秤にかけ、良い方を取り悪い方を捨てる。 そうすれば必ず正しい道を見つけることが出来る。 多少のデメリットの発生は致し方ない。デメリットのない方法などない。 しかしどんなデメリットが発生したとしても、それが最善の策ならば、誰も文句のいいようがない。 もちろん導き出した答えが本当に最善かどうかは分からない。 見落としている事実や、間違った予想をすることもあるだろう。 しかしそれは所詮結果論で、その場にいる全ての人間の意見を総合して考えて出された結論ならば、それがその時の最善で、それがいかなる結果をもたらそうと、結局それが正しい道なのだ。 過去を変えることは出来ないのだから、仕方がないことだ。 当たり前のことを言っている、と思うでしょう。 失敗したいと思う人間は1人もいない。 誰しもが今考えられる最善を考え、行動しているはずだ。 だからもし失敗したとしても、その失敗には理由があるわけで こうじゃなくてああしていれば、なんてことは結果論なわけで その時考えられる最善を取ったのならば、それを悔やむ必要は無い。 じゃあなんで なんでこんなに悔しいの? なんでこんなに苦しいの? それは自分が弱いから。 自分の弱さを痛感してしまうから。 私がもっと強ければ、論理の精度を上げられたでしょう。 私がもっと強ければ、論理の幅を広げられたでしょう。 完全な人間などいない。 しかし少しでも近付ければ、などと思ってしまう。 もう二度と、同じ失敗はしたくない・・・! でもそれだけ? それでも私の中に残り続けるそのモヤモヤが、私が培ってきた論理の檻を壊し始める。 人間は、世界は、そんなに簡単なものではなかった。 人間には感情がある。 世界には自然がある。 もちろん私はそれらも考慮して理論を作ったつもりだ。 ただその理論は完全じゃなかったようだ。 人間の感情は私の思うより複雑だった。 人が考えることにも必ず理由はある。 何故それが好きなのか、何故それが嫌いなのか。 答えることが出来るはずだ。 しかし人間には、何故こんな考えを抱いたのか自分でも分からない時がある。 その感情が、私の論理の檻を簡単にすり抜けかき回す。 なんとなくなどという曖昧な理由で、最善から離れたところへ私を導いていく。 感情に流されることは愚かなことだとは思うが、その感情に満たされた自分はなぜかとても心地よく感じてしまう。 そのパラドックスに、私は論理とは違う何かを見た。 私はいくつもの文献を漁った。 多くの人の意見を見て、聞いた。 そして私の作り上げた理論が間違いだと推定した。 そう推定した最大の理由 それは「1人でいること」の持論に対してだ。 結局信頼できるのは自分だけなんだ。 信用しても裏切られる事だってあるだろう。 相手がミスをしているかもしれない。 完全な人間などいやしない。 どんなに信頼できる友達でも、その人のことを全て知る術は無い。 全てを疑えば、全てが見えなくなる。 だけど物事に100%なんてことはない。 だからこそ他人の発言する事実は、所詮その確率をある程度高めるだけの道具でしかない。 「悲しいヒトね・・」 皆そう言う。 しかし悲しいとは思わない。 なぜなら私はいつでも1人で生きてきたし、これからも生きていけると思っている。 1人で解決できないこともあるだろうが、それも想定の範囲内。 解決しようと試みることで自己を高めることもできる。 もちろん他人と力を合わせた方が可能性も増えるし、強い力を出すことが出来る。 しかしそれには危険性も孕んでいる。それも事実。 私は現状に満足しているし、それを失いたくは無い。 だからこそ危険な賭けはしない。 成功すれば大きく前進する賭けだとしても、失敗の大きさから躊躇する。 そうやって何もしないことを正当化してきた。 しかし・・・・ 世の中はそれには反対のようだ。 この考え方は物語の中では必ず悪役の位置にあり、必ず多人数に打ち負かされる。 もちろん多数派が常に正しいとは限らないし、確立した常識が覆されることだってある。 しかし私は、少なくともそんな常識を覆せるほど力を持っているとは思っていない。そこまで自分を買いかぶってなどいない。 世の中の考えは、大勢の支持者がいるわけで、その確立には多くの私よりも優れた人間が携わっているに違いないわけで。 つまりそこが私の論理が誤っているのではないかと推定した根拠だ。 しかしそれがどのようにして、どのような考えで確立されたのかが全く分からない。 どれだけの人に聞いても、私の論理を打ち砕く決め手にはならなかった。 どんな意見にも反論が浮かぶ。 きっと実感が無いのだろう。 まだたかだか20年生きただけ。 それなのに全てを悟った気でいるなんて、笑われても仕方がない。 だから私は待つ。 私の論理が崩壊するその時まで。 私はそれまで人を、世界を、疑い続けるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年01月01日 23時59分56秒
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