怖い話の定番は夏ですから。
業務連絡 ギタドラが盛り上がってきた所でそろそろ集会の季節ですね。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あれ?ない!私のシャーペンがない!嘘でしょ。さっきの授業の最後にちゃんと筆箱に入れて、それ以降開けてないのに。。カバンの中、、、ない。教科書の間、、、ない。どこいっちゃったんだろう。。もうしかしたら前の授業の最後に入れたと思ったけど入れてなかったのかなぁ。。よし、この授業が終わったらさっきの教室を見に行こう。約5分後あぁ暇だ。ネタ作るか。え~っと電子辞書、電子辞書。。。あれ、これシャーペンじゃん。え、うそ!?さっきカバン探しても見つからなかったのに、なんでカバン開けた所にあるの!?うーん、どう考えてもおかしい。もしやこれは神隠し!?神隠しというと人が忽然と姿を消すことをいいますが、神隠しにも当人が帰還するパターンもあるのです。当人が帰還すれば原因わかるんじゃねーか、と思いますが、それは違います。なぜなら帰還した人は大抵当時のことを忘れているか、天狗に連れ去られたんだ、などというどう考えても現実味がない話をするからです。そんな神隠しは、実は現在でも日常にあふれていたりします。例えば9歳の女の子が突然行方不明になった事件は、神隠しであるという説があります。目撃者の情報によると、女の子はたった1,2分の間に居なくなったらしいのです。確かにそんな短時間でことを起こすのは少々難しい気もします。神隠しである可能性は高そうです。彼女は未だに帰ってこないそうです。情報求む!あとは、ムーディ勝山や小梅太夫なんかも神隠しにあったと言えるでしょう。このように現在でも多くの事例があるわけですが、そのいずれも原因が分かっていないものばかりです。よく言われているのは天狗などの山の神さまに連れ去られちゃうっていう説ですけどねぇ。。天狗というと真っ赤な皮膚、長い鼻、背中に羽、葉っぱのうちわを持っていて、傍らにはダルマがいるのが一般的です。神、というと人を超越した抽象的な存在と想像しますが、この天狗はしっかりとした描写がなされているわけですね。またこういったことから天狗に似ている動植物には全てテング○○という名前がつけられています。テングチョウ、テングザメ、テングコウモリなんかがいい例です。テングザル、テングニンゲンなんかは有名なところでしょう。テングニンゲンの仲間にウソップなんかが居ます。また植物ではテングクワガタ、テングウチワ、テングサなんかがあります。これらの動植物は神に似ているということで自分のことを誇らしく思っているに違いありません。天狗になっているからです。さて、天狗とはそもそも流星を天狗に例えた所から始まるわけですが、昔から不可解なものを想像上の生物のせいにすることはよくあることだったのです。つまり人が忽然と消える、というありえない状況を、天狗という想像上の生き物に押し付け不安を和らげているわけです。しかしながら不可解な状況を非現実的なものに押し付けてしまえば、それ以上の発展は望めず、真相を知ることは決してできなくなってしまうのです。それはいけないことだと思いませんか。例えばここに私の携帯があります。これをゴミ箱にポイッと入れます。今私がゴミ箱に携帯を入れたことは誰も見ていませんでした。では後に誰かがゴミ箱から携帯を発見したとしたらどう思うでしょうか。何故こんな所に携帯があるのか。まさか神のいたずら・・・?となるでしょうか。もう少し考えてみましょう。何故こんな所に携帯があるのか。それには必ず原因があると考えるのが普通ではないでしょうか。例えばゴミ箱の隣の机に置いておいたのが、バイブレーションのせいで落ちてしまった、とか。絶対にありえない状況に遭遇した時の人間は、意識的であっても無意識的であっても、未知の回避をしたがる、つまり真理を追究したがるものなのです。ありえない状況、分からない物事、そんなものが近くにあると、人間は必ず不安になるのです。そこで真相を見つけようとします。人に尋ねたり、その場の状況を検証したり、などです。それでも分からなかった場合はもっともらしい仮定を立て、一時的な安心感を得ます。これが天狗の始まりと言えるのではないでしょうか。天狗以外にもカッパや雪男やツチノコやネッシーや地底人やプレデターやキメラや情報統合思念体やオヤシロサマや使徒や天人(あまんと)やナメック星人や虚(ホロウ)やモコナやサイヤ人やピクミンやカービィやムーミンやケロロ軍曹なんかも同じ理由でしょう。つまりは真理の追求をいきなり投げるのではなくて、真理を追求した結果分からなかったから、仮の真理を定義した、ということですね。さて、話が大幅に逸れましたが、神隠しの話に戻ります。神隠しというと皆さんが一番最初に思い出すのは「千と千尋の神隠し」ではないでしょうか。スタジオジブリの2001年の作品ですが、お話を始める前にこの映画について少しおさらいしておきましょうか。「千と千尋の神隠し」2001年公開。監督は宮崎駿。ベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞するなど、数々の栄冠に輝いています。また、日本国内の映画の興行収入では堂々の1位、テレビ初公開時の視聴率は40%を超え、映画の歴代1位という記録も残しています。あらすじは、千尋という少女がなんやかんやあって豚を助ける話。この千と千尋の神隠し、なぜ題名に神隠しと付いているのでしょうか。内容を考えると、つまりは千尋が神隠しに遭う当人であると解釈できます。ようは湯婆婆は天狗です。なるほど、確かにちょっと似てる。。。では今回この千と千尋の神隠しの世界を、外側の人間から見るとどうなるのか、という方向から見てみましょう。具体的にいうと、神隠しに遭った人の友人の役のようなものです。始めに千尋たちはトンネルをくぐり、あの異界へ辿り着きます。異界にいるということは、逆に言うと現実世界に居ないことを表し、つまりは現実世界の人間からすると消失してしまったことに他なりません。つまりこれが世に言う神隠しの始まりなのです。その後両親は豚に変えられてしまうわけですが、もしも千尋が居なかった場合、一生豚のままであったことが予想されます。その場合は永遠の消失、つまりは帰還できなかったパターンです。そして物語では最後に豚を元に戻して現実世界に帰ってくるわけです。これは帰還したパターンであるわけですが、ラストシーンをよく思い出してみてください。最初に乗ってきた車が繁みに覆われてしまっているんですね。これは時間の経過を表しており、つまり異界と現実の時間の流れの違いが表されています。このような現象は昔から存在し、浦島太郎なんかがいい例でしょう。数学の授業が他の授業よりも長く感じる、というのの強化版と考えて結構です。つまり異界と現実世界では時間的な「歪み」が存在し、時間が決して絶対的なものでなくなることが分かります。これが原因でイクラちゃんがいつまでたってもバブーしか言えなかったりするわけです。では、時間の歪みが存在する異界は現実にありえるのか。これはどちらとも言えません。逆に言うと、存在するかもしれません。なぜなら時間を絶対的ではないと仮定した場合に、その仮定を否定することができないからです。極端な話、明日時間が止まる可能性もあります。藤子不二雄の作品にも、時間が段々早くなるというお話がありました。また今回の場合、時間の歪みは異界と現実世界を往復した本人のみが感じるもので、他人への影響はほぼ皆無と考えられます。異界と現実世界の時間の相違によって、記憶が書き換えられたり、または無くなったりすることは無きにしも非ず、と思いますね。つまり異界の存在は否定できないのです。まぁこう言うのも未知の回避に他ならないわけですが。。。そういえば湯婆婆と湯湯婆(ゆたんぽ)って似てますよね。そうだ、最近寒いから母親に湯たんぽ買ってきてもらおう。母親にメールを、、、あれ?私の携帯がない!さっきまでここにあったのに!まさか神隠し!?