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テーマ:黄帝内経の世界(5)
カテゴリ:黄帝内経の世界
今回は、精神について。 現代では、精神と言えば「精神科」が思い浮かぶように、心の動きとかバランスというイメージが定着しています。
ところが、実はこの精神という言葉。元は東洋医学用語で、もっと奥の深い意味を持っています。 ひとつは肉体と、肉体を維持している「気」を同時に表現したものです。 太極である人間を精と神、つまり陰陽で表現したものです。 もうひとつは、親から子へと伝える根源的なものという意味があります。言わば、オリンピックの聖火リレーのたいまつ(精)と炎(神)のようなものです。 そもそも精とは、人間の根源的な物質的基盤を意味しており、生まれてからは主に大地の気。つまり食物によって補われる。 そして神とは、一個の人間として形づくる気=エネルギーを意味しており、生まれてからは主に天の気。つまり空気によって補われる。 この精神を良好状態にするには、まず自然の陰陽に法った生活が最も大切で、さらに心を平安に保ち、肉体的には疲れ切るとことの無いようにと、大昔を例えにして述べています。 もう少し詳しく解説します。 心の動きというのは、覚醒している日中絶えず動いて来ます。動くためには物質的な精が必要です。 写真のろうそくはその例えです。 心が激しく動揺したり、不安になると炎が大きくなります。するとロウの部分が早く消費されてしまい、早く老けてしまいます。 現代人は大量の情報に触れるので、心も激しく・早く反応します。加えて、現代は消費への圧力が高い時代です。
原文と読み下しは、最後に記しています。意訳しましたので、じっくりと読んでみてください。 大昔の聖人は、以下のように人々にお教えになられた。
太古の人々は、人を害する季節外れの風(例:春は東風以外の方向からの風)を避け、心にはこだわりがなく穏やかで、さらに貪ったり損得に心を煩わせたりするようなことはなかった。であればこそ、肉体と心はしっかりと内側から守っていたのである。このような心持で生活するのであれば、どうして病気になど罹ることがあろうか。 したがって当時の人々は、心を制御して欲に任せるようなことをしなかったので、心はいつも安らかで恐れるものもなく、身体がぐったりとなるまで労働することもなかった。だから元気は停滞することなく全身を循っていたのである。 欲に任せることなく少欲だった人々は、欲しいと願うものは簡単に手にすることができていたので、心はいつも満たされていたのである。
目の前の食を美味しいと感じ、今来ているものを心地よく思い、世間の風習を楽しんで、しかも地位の高低をうらやむこともなかった。この当時の民は至って純朴であった。 万事このようであったから、嗜好に目がくらむこともなく、ひつこくいやらしい邪気もその心を惑わすことが出来なかった。そして賢い人も愚鈍な人も、ものごとに恐れるということがなかった。だから自然と養生の法則に適っていたのである。
これらが、上古において、人々がみんな100歳を超えても動作が衰えなかった理由である。また、真直ぐな心と生活態度であったからこそ、病気になって生命の危機を迎えるようなこともなかったのである。
夫上古聖人之教下也.皆謂之虚邪賊風.避之有時. それ上古聖人の教え下さるや、みなこれを謂う。虚邪賊風、これを避けるに時有りと。 恬惔虚無.眞氣從之.精神内守.病安從來.是以志閑而少欲.心安而不懼. 形勞而不倦.氣從以順 恬惔虚無なれば眞氣これに従い、精神は内を守り、病いずくんぞ従い来たらんや。 是を以て志、閑にして欲少く、心安んじて懼(おそ)れず、形を勞して倦まず。気は從い以って順ず。 各從其欲.皆得所願.故美其食.任其服.樂其俗.高下不相慕.其民故曰朴. おのおの其の欲に從がいて、皆願う所を得る。故に其の食を美(うま)しとし、其の服を任じ、 其の俗を樂しみ、高下は相慕(した)わず。其の民、故に朴と曰く。 是以嗜欲不能勞其目.淫邪不能惑其心.愚智賢不肖.不懼於物.故合於道. 是を以って嗜欲は其の目を勞すること能わず、淫邪は其の心を惑わすこと能わず、 愚智賢不肖は物に懼(おそ)れず、故に道に合す。 所以能年皆度百歳.而動作不衰者.以其徳全不危也. 能く年、皆百歳を度えて、しかも動作衰えざる所以の者は、其の徳を以て全うすれば危うからざるなり。
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