『治療の書』(4)治療ということ
『治療のこと慎重たる可きはもとよりなるも、いたずらに無事である為に用心し、又余分な安静を強いて慎重のつもりなる人あれど非也。安静は休養の為要る也。休養は疲るるが故に要る也。疲れたる人に安静を教へることもとより必要なこと也。されど疲れ抜ける人、疲れざる人を、安静ならしむれば弛むだけ也。弛めば人間の本具のちから発揚されず、耐え得可きに耐えられず、経過し得可きに経過し得ざるに至る也。それ故安静をすすむること必ずしも慎重なるに非ず。ただ安静の必要なる時に安静ならしめ、安静を破る可きに破らしむるのみ慎重という也。然るに安静そのものを慎重と思い違へて、いつ迄もいつ迄も安静を保たしめ、安静を破ることを脅怖して安静の為に安静を強いて慎重のつもりの人おる也。是れ治療する者の不安の為、患者に余分なことを強いている也。之によりて安静を保つは治療する者のみ也。安静という形を保たしめられている病人はいよいよ不安になり、心騒ぎ胸ときめかしている也。自分の心の安静の為、起く可き人を寝かし、働く可き比とを休まし、食ふべきに食はしめず、鍛錬す可きに保護している人は反省す可き也。之らのこと慎重のつもりで行っている人見たら、受くる人は心して治療する人の足もとを見る可し。之慎重に非ずして治療する人の腰が抜けている也。このことを見定めず、ただ安静に終止しておれば自分の腰もぬけてしまう也。治療する人、起くるに起こし、働くを働かしめ、休むを休まし、食ふを食はしめ、鍛えるを鍛え、護るを護って誤り無きのみ治療といふことに於ける慎重なること会す可き也。用心の為に用心し、余分に護らねば自分が不安になり、余分に休ましめねば自分の心休まらず、為に余分に守り庇っている人あるも、是治療ということしらざるの人也。 治療とは人を彊(つよ)くすること也。治療とは自分が苦しんでも人を楽にすること也。自分の心を楽にする為、人に余分なこと行はしむることに非ず。されど斯くの如きことせぬと用心無しと思ふ人もある也。之らの人、用心に用心をする急処あり機あることを解さず、寝て脚の太くなるのを待っているの人也。されど脚を動かさばふとくなるをのみ知って、余分に動かしむるも又不可也。慎重といふこと用心に終始することに非ず。されど用心を忘るるはもとより慎重に非ず。』これを読んで私が思い出すことは、自分が研修医だった時代に、患者さんの退院時期をいつにするかで多いに迷った事です。特に患者さんの入院当初の状態が重症であった場合や、過去に入退院を繰り返していた人の場合はいつ迄入院での治療を継続すべきか、いつ日常生活に復すべきかアドバイスに迷いました。今は、患者さんの脈を見て、舌を見て、声を聞き、顔つきと肌のつやを見れば、安静にすべきか否かに迷う事はほとんどないのですが… 。そして、もう1つ思う事は、この安静や活動についての指示というのは、ある部分では医学のパターナリズムがもたらす問題点とも関係しているということです。つまり、医者や治療者が『安静が必要です』とか、『仕事を再開しても良いでしょう』などと言う迄、決して自分で判断しない人もあるということです。今日の外来に、今年の春から夏にかけて、私の意見を参考にして半日断食を繰り返して長年のパニック発作や鬱状態から離脱した30代の男性患者さんが来院されました。その方が今日私に話してくれた言葉は『先生、断食をして今の体重になってからというもの、何だか体の状態に敏感なっています。今だったら、もし体のどこかにガンでも出来たら自分で感じられると思います。』というものでした。時分の肉体や心の状態に対して目覚めている事、そして自分という船の船長としてその舵を手放さない事、それが一番大切なのだと思いださせてくれる言葉でした。