誰の責任なのか?
11月24日、日本で初めて開催されたイハレアカラ・ヒュー・レン博士(phD)のホ・オポノポノの講座に1日だけ参加させて頂いた。博士の言葉の中で、一人一人の人間が「私」としてあるいは「人の子」として人生のすべてのすべてに対して100%の責任を持つことの必要性と可能性が存分に述べられた。私が敬愛するエドガーケイシーさんは、そのリーディングの中で『多くを知るものは多くの責任を担う』とシンプルに語っておられるが、その言葉を聞いてから25年以上が経った今、ようやくホ・オポノポノを知り、私はケイシーさんが語った言葉の真意を理解した。私は、電車のつり革広告を見て、その内容にしばしば不快を感じるのだが、その不快感は、実は私自身が自分の世界に対して100%の責任を担っていないゆえの不快感なのだ。人は(私は)多くの情報を得る方が、他の人よりも有能になれるという催眠暗示にかかったまま生きている。より早く、より多く、そうでなければ生きて行けないとでも言うように、私たちはこの世界の文明と文化を築いてきた。だが、その裏には絶望的な不安と恐怖が潜んでいる。私たちが神の子であり、人の子であるなら、私たちの永遠不変の内なる平安と導き以外の、いったいどこに救いがあろう。電車に乗り、つり革広告を読むというただそれだけの行為の裏側に、どれほど集約された恐怖のシステムが生きていることか。バッチ博士が、『自分の行うことすべてが、すべての行為が、いやそれどころか、 考えの一つ一つが、自分自身から発せられ、それによって、 自発的に、全く自発的に生き、人を助けられるように、 絶対的で完全な自由を得なければなりません。』と語った言葉に従うことのなんと困難なことか、私は思い至って愕然とした。ああ全能者よ迷える我らを憐れみ導きたまえ。あなたのかわらぬ愛のゆえに。