アシュターヴァクラ・ギーター The Ashtavakra Gita 真我の輝き18章後半:師
愚か者は心を制御しようとして必死だ。いったいどうしてそれが可能だろう?賢く、自己を愛する人に、それは自然に起こるのだ。ある人は存在を信じ、ある人は「何も存在しない」と言う。そのどちらも信じない人は稀だ。彼は混乱することがない。愚か者は、真我が純粋で分割不可能だと知っているかもしれない。だが、愚かさゆえ、決してそれを見いだせない。彼は一生悩み続ける。自由を求める人の心は支えもなくつまずく。だが、すでに自由になった人の心は自らの足で立ち、熱情に溺れることがない。感覚は虎だ、臆病な人は、虎を見ると一目散に近くの洞窟へと逃げだして、集中や瞑想を修練する。だが、無欲の人はライオンだ。出くわした途端に逃げ出すのは感覚のほう!まるで象のようにこっそりと走り去る。逃げ切れなかった時は、奴隷のように彼に仕えるのだ。疑いをもたず、真我と一つになった人の心は、もはや自由を求めない。彼は、見、聞き、触れ、嗅ぎ、味わいながら、この世で幸せに暮らす。ただ真理を聞いただけで、彼の心は無限に開かれる。その気づきは純粋そのもの。彼は努力や静寂を気にかけない。彼は自分が無関心でいることにさえ無関心だ。師は子どものようだ、良い事も悪いことも、何であれ、起こるにまかせて振る舞う。自分の足で立つことで、人は幸福を見いだす。自分の足で立つことで、人は自由を見いだす。自分の足で立つことで、彼は世界を越える。自分の足で立つことで、彼は究極にたどりつく。真我を実現するとき、人は行為者でも、それを楽しむ者でもない。彼の心のさざ波は静まったのだ。師の道は束縛がなく、はかりごともない。彼は輝く。だが、愚か者に平和はない、その心は欲望で渦巻いている。師は心から解放された。彼の心は自由だ。この自由の中で、彼は遊び、素晴らしい時を過ごす!時には山奥の洞窟に隠れて暮らす。王様であれ、女性であれ、あるいは親愛なる人と出会っても、師は何も欲しない。神や聖地や聖典に精通した人を讃えたとしても、彼のハートには何の願望もない。まったくといって無いのだ!彼は心乱されない、たとえ召し使いが彼を見下したとしても、あるいは、妻や息子や孫が彼をあざ笑ったとしても、たとえ、家族全員が彼を馬鹿にしたとしても動じない。彼にとって苦痛は苦痛ではなく、快楽は快楽ではない。ただ、彼のような人だけが、その崇高な精神を知っている。彼には姿かたちがない、彼の姿は空なのだ。彼は不変で純粋だ。彼には人を世間に縛り付ける義務という感覚がない。師は義務を果たしながらも、決して煩わされない。愚か者は務めを怠りながらも、心乱され、落ち着かない。師はなすべきことを完全な平静さをもって行う。座るとき、彼は幸せだ。話し、食べるとき彼は幸せだ。眠るときも幸せだ。来るときも去るときも幸せだ。彼は自己の本性を知っている。だから普通の人のように苛立つこともなく、するべき事を成し遂げる。広大な湖の水面のように穏やかに輝いている。彼の悲しみは終わったのだ。愚か者の心は、静かにしていても忙しい。師は忙しくしていても、静寂の実りを得る。愚か者はしばしば所有物を放棄したりする。師はもはや身体に執着しない、いったいどうして彼が魅力や嫌悪を感じるというのだろう?愚か者の気づきは、考えることや考えないようにすることでいつも限られている。内なる生を生きる人の気づきは、たとえ忙しく考えているように見えても、気づきそのものを越えている。師は子どものようだ、その行為には何の動機もない。彼は純粋だ、何をしようとも、超然と見守っている。彼は祝福を受けたのだ、真我の本性を理解し、もはや心は渇望しない。何を見ようと、聞こうと、嗅ごうと、触れようと、味わおうと、どんな状況でも彼は変わらない。師は大空のよう、決して変わる事がない。世界やその反映が、彼にとって何の意味があるというのか?探求や、探求の終焉、それが彼にとって何だというのか?彼はいつも変わらない、勝利は彼のもの。彼は世界を征服したのだ。彼は本来無限なるもの、自己の完全なる本質そのもの。これ以上、何をいうことがあろう?彼は真理を知り、もはや快楽も解脱も望まない。いつであれ、どこであれ、彼は熱情から自由なのだ。心とともに現れる二元性の世界を、彼は棄て去った。それはただの名前でしかない。彼は純粋な気づきだ、なすべき事はもはやない。純粋な人は、何も存在しないことを知っている。それはみな幻影のしわざ、彼は目には見えないものを見ている。その本性は平和だ。かれは世界という現れをみない。規則や無執着、放棄や自己制御、それが彼にとって何だというのだろう?彼の姿は純粋な輝く光なのだ。彼は世界を見ない。喜びや悲しみ、束縛や解脱、それが彼にとって何だというのだろう?彼は限りなく輝いている。理解が起こる前は、世界という幻影が支配している。だが、師は熱情から自由だ。彼には「私」も「私のもの」もない。そして彼は輝く。彼は真我が苦しむことも、死ぬこともないと知っている。だから知識や世界のことを気にかけない。「私は身体だ」や「身体は私のものだ」という感覚ももたない。愚か者は、精神集中や霊的修練をあきらめるやいなや、空想や欲望のとりこになる。真理を耳にした後でさえ、愚か者は愚かな考えにしがみつく。彼は必死になって、平静と落ち着きを保とうとする。だが、彼の内面は欲望で渦巻いている。真理が理解されたとき、仕事は消え去る。他の者達の目には、師は仕事をしているように映る。だが、実際、彼は話をしているわけでも、何かをしているわけでもない。彼には恐れがない、彼は常に変わらない。彼には失うものがない。彼にとって暗闇はなく、光もない。全く何も存在しないのだ。彼には自分自身という存在がない、彼の本性を描写することは出来ない。忍耐や識別や勇気、それが彼にとって何だというのだろう?師の目には何も存在しない。天国もなければ地獄もない。解脱などと言うものもありはしないのだ。これ以上何が言えよう。彼は何も得ることを期待しない。何も失うことを恐れない。彼の心は落ち着き、甘露の雨を浴びている。彼は欲望から自由で、心の平和な人をほめることもなく、心の邪悪な人を責めることもない。喜びにも悲しみにも、変わらず幸せだ。何も為すべき事はないと知っているのだ。彼は世界を憎まない、真我を求めない。彼は喜びや悲しみから解放された。彼は生きていない、そして死んでもいない。彼には家族への執着がない、欲望や感覚から解き放たれ、身体のことを心配しない。師は何も期待せず、ただ輝く。何が起ころうと、彼はいつも幸せだ。彼は風の向くままにさまよう。どこにいようと、日が暮れたとき居るところが彼の眠る場所だ。身体が生きようと死のうとかまいはしない。彼は自己の存在の中に確立し、生と死の輪廻を越えたのだ。彼は喜びに満ちている。何事にも執着せず、所有せず、自立している。彼の疑問は晴れた、彼は一つのことを別の事に対立させることなく、思うがままに生きる。師は輝く、彼は決して「私のもの」とは言わない。金も石も土も、彼にとってはみな同じ。怠惰に浸ることも、活動に夢中になることもない。彼はハートのくびきを断ち切ったのだ。彼に並ぶ者がどこにいよう、何も気にかけず、幸福で、自由な人。その心には欲望のかけらさえない。ただ無欲の人だけが、見ることなしに見、話すことなしに話し、知ることなく知る。彼の目には、善と悪の違いは溶け去った。王様であろうと乞食であろうと、無欲の人だけが輝くのだ!彼には、まったく邪心がない。彼は道を見いだしたのだ、彼は純真そのもの。自制することも、自由奔放にすることも、気にかけない。真理を探し求めることにさえ全く関心がない。彼は無欲で、真我の内に幸せに安らぐ。悲しみは終わりを告げた、彼が何を感じているのか誰が知ろう?たとえぐっすり眠っている時でさえ、彼は眠っていない。たとえ夢を見ているときでさえ、彼は夢を見ていない。何であれ起こるにまかせて彼は幸せだ。彼は考えることなしに考え、感じることなしに感じる。彼は聰明だが心を持たない。彼には人格があるが、自分という考えがない。彼は幸せでもなく、不幸せでもない。冷淡ではなく、とらわれてもいない。自由ではなく、自由を求めてもいない。彼はこれではなく、あれでもない。混乱のさなかでも、彼は乱されない。瞑想のさなかでも、彼は瞑想してはいない。愚かしいが、愚かではない。すべてを知っていながら、何も知らない。彼は常に内なる生を生きている。彼はどこにいても同じだ。行為や義務は、彼には何の意味ももたない。無欲ゆえに、為してきたことや為しえなかったことを気にかけることがない。非難が彼を当惑させることはなく、賞賛がかれを有頂天にさせることもない。人生を楽しむことも、死をおそれることもない。彼の心は静かだ。森林に孤独を求めることも、群衆から逃げ出すこともない。いつであれ、どこであれ、彼は一なるものとしてとどまる。