気づき
アシュターヴァクラ・ギータから学んだ道が何であれ、心の澄んだ人は自己に至る。世俗の者は一生かけて求めながらいまだ途方にくれている。感覚に囚われなければあなたは自由。囚われたときあなたは束縛される。これを悟ればあなたは思うまま自由に生きる。これを悟れば利口でせわしなく言葉巧みな人もついに静かになる。彼は何もしない。彼は静かだ。この世の快楽にふけりたい者が、これを理解したがらないのも無理はない。あなたは身体ではない、身体はあなたではない。あなたは行為者ではない、そして行為を楽しむ者でもない。あなたは気づき、すべての物事を見守るただ一人の観照者だ。期待もせず自由だ。どこへ行こうと幸せでありなさい。欲望、嫌悪は心のもの、そして心はあなたのものではなく、あなたは心ではない。あなたはその混乱から自由なのだ。あなたは不変なる気づき。どこへ行こうと幸せでありなさい。なぜなら見るが良い、真我は生きとし生けるものの中に存在し、生きとし生けるものは真我の中に存在している。知るがいい、あなたは「私」からも「私のもの」からも自由なのだ。ただ幸せでありなさい。世界は大海原の波のように、あなたの内に沸き起こる。それが真実だ、世界はあなたの内に沸き起こっているだけだ。世界は波に過ぎない、あなたは気づきそのもの。世界という夢、世界という熱病からあなた自身を解き放ちなさい。信じなさい我が子よ、信頼するがよい。迷ってはならない。なぜならあなたは全てを超えた全知のハート。あなたは真我、あなたは神なのだ。身体はその本来の性質にしばられている。それは現れ、しばらくの間生きながらえ、消えてゆく。だが、真我は来ることも去ることもない。なら、なぜ身体について嘆くのか。いったいどんな理由で身体に拘るのか?たとえ時が果てるまで身体が生き延びようと、今日消え去ろうと、何を得て何を失うというのか?あなたは純粋な気づきなのだ。あなたは果てしない海、その中で世界は波のように湧き起こり、静まりかえる。だから何を得るということも何を失うということもない。我が子よ、あなたは純粋な気づき、それに他ならない。あなたと世界は一つ。ならばどうしてそれに執着したり、それを放棄したり出来ようか? いったいどうしてそんな事ができるというのか! いったいどうして!あなたは純粋で静かな澄み切った気づきの空間。そこには誕生も行為も「私」もない。あなたは一なるもの、変化も死もあり得ない。見るものすべてにあなたは存在している。ただあなただけがある。腕輪、足輪、揺れる足飾りがすべて金から出来ているように。「私はこれではない」「私は神だ」そんな区別は棄て去るがよい、すべてが真我なのだ、あらゆる区別を手放しなさい、あらゆる意図を手ばなしなさい。そして幸せでありなさい。世界は無知から生まれる。ただあなただけが真実なのだ。あなたから文理した人など誰もいない、神でさえも。あなたは純粋な気づき。世界はただの幻。これを悟ればすべての欲望は消え去る。あなたはついに平和を見いだした。なぜなら本当に何も存在しないのだから。存在の大海の中には、ただ一なるものだけが在る。いままでも、これからも、ただ、一なるものだけが在る。あなたは既に満たされているのだ、どうして束縛されたり、自由になったり出来るというのか?どこへ行こうとも幸せでありなさい!