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2006.04.24
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カテゴリ:生きる
ながく家を空けている間に、いくつか郵便物が届いていた。なかに最近ふとした機縁によりつき合いはじめた画家の宇野マサシ氏からの封書があった。つい先日もいっしょに焼肉を食つたばかりで、書簡はその前(4月15日)に出されたものであつた。開封すれば、A3大のコピーが入つていて、「以前、『書の美』に書いたエツセイです。お読み捨て下さい」と添え書きがあつた。さつそく読んでみた。1985年に69歳で没した孤高の書家・井上有一について綴つたエツセイだ。意を尽くし、まことにみごとであり、共感もした。このような眼力こそが素敵である、とうてい「読み捨て」るわけにはいかない。おのれひとりで愉しまず、以下に全文を再録させていただく次第だ(改行等は省略した)。

人間が文化的動物であることを一番証明出来るものは、まず言葉・言語という道具を身につけていることではないだろうか。外国語を学ぼうとしてみると理解できることだが、四才の子供が話すその国の言葉ははっきりとその子が四年の年月をかけて学んだ結果だということ、そして言葉を習得しないと人間の第一歩が始まらないということがわかる。その修練(言葉の)こそが人間が人間になる道程そのものだということが理解できる。否応なく人間は訓練されて人間になる。この時に人間は既に文化的存在として規定されている。それは空気を吸う行為が自然であることとは異なる。言葉の発生より以来の文化的営為、時間の積み重ね、歴史の先端に立つて人は生まれ宿命を負うのだ。これは又文学と無縁ではない。文学の出現、発生をも背負つて人間は育つのだ。

書と言葉の関わりを考える時、その原点をいつも忘れてはならない、と思う。言葉から、音声を発してのち文字は生まれる。生まれた文字は音を含んでいる。音は人間の精神(こころ)を蔵している。文字の中には精神が有る。どのように文字を扱かおうと此の大きな掌の中から飛び出すことは出来ない。人間のやさしさもかなしみも、苦悩も焦りもその中に籠められている。

最近、井上有一の書について考える。言うまでもないが、井上有一の書の中にも沢山の文学性、言葉が有る。「ネズミパンアリマス、ドクチャンアリマス」などはその片仮名使いから言つても一短詩型だが、それが書に変じる瞬間を考えると、多くの要素に出会う。それは既成の書からの離脱という井上有一が生涯の方向とした意志が、言葉に頼つて一つの原初の形を獲得する様態を持つている。その様態は拙である。井上有一の書の持つ魅力は既成の書のあり方、考え方を壊してゆくその生き様の迫力だが、そのことの意味は現代の書道界にとって大きいと思う。書をより完成したものへと訓練し、目指し、目的とする書道、その反対の方向に向かつて独り井上有一は歩を進めたように見える。その破壊の狂気はまるで転輪聖王の如くで、無手勝流だ。いかに既成の書のあり方に反抗し抵抗する強い意志を持つていたかが、一筆一画一本の線に感じられる。既成の破壊はつまるところ新しきものの創造なのだ、ということを如実に井上有一は示したのではないだろうか。その魅力の根源は破壊する意志にあった、と僕には見える。歴史をながめればすぐに気付くことだが、壊すことによってしか新しいものは常に生み出せない。新しいものを生み出すエネルギーは破壊という現象になって顕現する。

井上有一の臨書は顔氏家广堂碑に行きつくが、たとえばコンテで書かれた時代のものは、幼児の文字を臨しているように見え、思わぬ意外性を持つ。それはまるで稚拙への傾き、拙の臨と見える。又たとえば漢字で書かれた「人生一金、金金金…日本各界 ハイダラクココニキワマレル」」などは壁の落書き、の臨に見える。既成の書への抵抗感が激しく熟した時、井上有一の視覚に幼児の文字、あるいは市井の壁の落書きが必然として模範となったのだろう。ここには既成にない書の臨書のあり方、方法がある。それは臨書の根本問題を含んでいる。井上有一が臨んだものは幼児の純度や壁の落書きの言葉の力、あるいはその中の魂だったのではないだろうか。

ところで、井上有一の書に絵画(美術)の影響を見逃すわけにはゆかないだろう。既成の書への反発、抵抗は欧米からの美術の潮流とぶつかり、切り結ぶことによって、はっきりと意識され、その影響を消化することによって造型としての書のあり方を井上有一は掴む。これは書のあり方の見直しの方法として井上有一の書の中に意識された。有一の方法論の新しさはそこにもある。書とは異質の文化を意識化することで既成の書への武器を確実に持つた、のだと僕は思う。それは時代の流れの中にあつて意識されたものだ。ちなみに欧米の美術は反対に墨の文化、書の文化から影響を受け取り、水と油はけして混じり合わないが、文化の上では油と水は溶けて渾然とした作品群を生みだした。それも時代の流れの産物である。水の力は油に滲み込み、油は又水に溶け入つてエナメルで書く書などが生みだされた。人間の体が混ざり合うことのない素材を消化して血・肉・骨となるように井上有一という個人の肉体を通して水と油が溶けた。

さまざまな既成のものを破壊する実験を経て、書という文化が見直され、新しい形が模索されるが、転輪聖王たらんとする井上有一はいま、書、文字、その母なる言葉の、人間の大きな智慧のふところで安らかに休んでいるのだろう。
二〇〇三年三月二十七日記ス

(『季刊 書の美』第73号所収 宇野マサシ文「思いつくままに 井上有一のこと」より全文転載)

なお、タイトルの括弧内十六文字は、没後に見つかつた井上有一の遺偈である。





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Last updated  2006.04.24 14:40:19
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