いきなり夏が来た。頭上のななめ後ろから頭頂部にむかってダムダム光線が照りつける土曜日の神楽坂の往来で、ソレは起きた。「本日限りサービス」の衣料品が並ぶ店頭で一足五十円の靴下を三足買い、店のお姉ちゃんと馬鹿話をして、それから本屋に立ち寄った。冷房を入れている。奥の棚にあったクライムミステリーを立ち読みして2400円に一瞬まよって店を出た。そのとき本のページにあった書き出しが頭の中にまだ残っていた。「おとこは数歩あるくと、もういちど面を夏のまぶしい陽にむけた。それからよろっとして頭からコンクリの路面に倒れた…」そんな叙述だった。ふっと目の前を見ると顔のやけに小さな中高年のおとこがひとり、商店街の路地からわたしの目の前へつつつっと飛びだしてきた。右手におおきなビニールの袋、左手に傘を持っている。がにまたのようなおかしな歩き方だ。あっというまもなく目の前数メートルでおとこはいきなり顔面からアスファルトの路面に突っ伏すようにたおれたのだ。まるでさっき目が記憶したクライムミステリーのシーンそっくりに。「おいおいおじさんどーした!」わたしは声をかけながら駆け寄りちいさい体を抱き起こした。両手の十本の指の爪が長く伸びている。左の手の甲は転倒したときに擦りむいたらしく血がにじんでいる。白昼の商店街のど真ん中で人の通りもかなりあったが、みんな横目でこちらをみながら通り過ぎる。角の靴屋の日陰にそのままじいさんを引きづるように運び、路上に散乱した手荷物の雑多をひろいあげて男のそばへ置く。「ああすみません、すみません」と、か細い声でしきりに礼を言う。しかし云いながらまた腰が抜けてしまったように尻もちをつき、路上にとうとう仰向けに寝てしまった。目がうつろだ。瞳孔が抜けるような青空を映し込む。顎のあたりに白い無精ひげがみえる。「いまちょっと病院の帰りなんですが…」「いいから何も言わずにしばらく休んでいるほうがいいよ」「ああ、すみませんすみません」。ほかに怪我したところもないようだった。靴屋さんには申し訳なかったが、店の脇の壁に男をしゃがみ込ませた。散乱した衣類はどうやら着替えの衣料品らしかったが、日焼けの具合や全体の様子から、ホームレスのようにもみえた。ほんの数分間だけまた倒れてしまわないか様子をうかがい、どうやら大丈夫らしかったのでそのままバイバイしたのだった。
さて、お芝居に出かける時間だ。
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Last updated
2006.05.20 15:27:16
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