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カテゴリ:生きる
向島の芝居小屋を出たところで、銀次はばったり女将と出くわしてしまった。
「あらまあ」とおとき。 「へへへ」とうろたえる銀次。 隅田川の柳の土手を初夏のすこしばかりねっとりした風が吹きすぎる。 「ここで会ったが百年目だねえ」と合わせ襦袢の裾を羽織っておときが流し目で見た。まったく生まれついての娼婦である。襟足の白くほっそりしたところを故意に銀次のほうへ露出させる。「今月分まだ戴いてないわ」「ああそうかい」 こまった。月初めに強請って稼いだ一両の大金は、吉原大門でその夜のうちに散財した。「松吉の舎弟分というのが、次郎吉親分に面通しを強要してきてね、いやなにおいらも悪い話しぢやあねえだろうと仲介したわけよ」 「あらそう。でもいいのそんないいわけいらないわ」おときは憮然として土手の向かいへ下駄を載せた。「手鎖で百両よ」きっと見返したそのおときの相貌にすごみがあった。 なるほど、たしかにいま番所に駆け込めば、銀次はよくて所払い、気のきかねえ木っ端に巡り合わせた日には、手鎖百日は堅かったろう。 「あのなあ」 月が出ている。川風はそれでも無いよりはましだった。 「なにが、なあ よ」 「おこるなよむくれるなよ、なあ」 「むくれるわよ」 川面にぷかりと、白い月の半欠けが映って揺らいでいる。 「おめえさあ、知ってるかあ」すすっと寄り添って、おときの耳朶へ銀次はそっと声を流した。「ヤツがほれ、あの豚松の野郎がさぁ、おまえに夢中なんだぜ」 豚松とは松吉の蔑称である。豚のように肥えた体躯としまりのない声が、豚が着物つけて二本足で歩いているように見えた。しかしゼニは持っている。 おときは、すっと足を止めて、銀次の顔をのぞき込む。 「あたしはなにすりゃあいいのさ」 「だからさ、そこが相談だわな、まあ、片手ぐらいははずむからさ」 「ふん」それでも、まんざらでなさそうにほつれた鬢に細い指を充てた。 江戸の蛎殻町から一帯にかけて、次郎吉親分の名前は鳴りひびいていた。町屋の横丁にしゃがみこんで、激しい昼の日射しを浴びながら、おときは時間をつぶしていた。 …と、ここまで書いたところで猫が八匹集団で夜食をせがみにやってきた。暑さしのぎにと「おときの恋」と適当なタイトルで時代小説っぽいおもいつきを書き出したんだが。昼間の気温34度。クーラーをつけ、天井のシーリングファンもフル回転だが、夜になっても気温はまだ30度。仕事にならない。目薬注して寝ることにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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