10匹居た子猫の一匹が今朝見ると冷たくなっていた。庭先の雑草のあいだに10センチほどの小さなからだを横たえ口をすこし開けて。もともとが、いちばんからだがちいさく覇気も元気もなかった。昨日昼間はまだ気づかなかったから、おそらくは未明の冷え込みに耐えられなかったのだ。ほかの猫たちはそのまわりを飛び跳ねてちいさな兄弟の死にいたって無関心だ。枯草の絨毯のうえで草花のあいだに横たわり、たぶんたいして苦しみもせずしずかに眠るように息絶えたのだろう。人間の死に際とこうした動物たちの臨終はおおいにちがうであろう。死に臨んでの苦しみのおおよそはむろん肉体的なものからもたらされる苦痛もあるが、むしろそれよりは、ヒトのこの生より生じるところのさまざまな(現世への)執着というところから発するものがあんがいと大きいのではなかろうか。肺を壊して危篤で運ばれたとき、死の玄関先まで一度行ったことがある。いうところの臨死体験というものだったのか。快い音楽が流れふしぎな物語の夢をみていた。われわれは死というものを本能的に懼れでつつみこむが、「死」そのものはあんがいとそうしたものなのだろう。たとえとしてはナンだけれど、それはまあ、サッカーボールにとってのゴールポストのようなものかもしれぬ。われわれも庭先のミャアミャアと鳴く猫どもも、ともに死というゴールに向かって生きる。そういう意味で、まったく、これっきりの生♪なのだ。
めでたく土に還るよう、縞々子猫の骸は去年初冬に亡くなったコテツの墓石の所にいっしょに埋めてあげることにした。
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