「おいそろそろ目を覚ましたらどうだ…」枕元で声がした。料金未納不通のままちかごろはすっかり目覚まし時計になってしまったケータイのそばで、黒い顔がこっちをじっと覗いている。いやこの場合は、「ぢっと」と書きたい。ぢっと覗いている。ウン、これでいい。滝のように秋の雨がトタン屋根を叩き通しだった夜をいくつも超えて、稲妻の尻尾を何本もその稜線に隠した山々の黒い塊が細い三日月を中天に浮かべている。あれからこっち、クマの親子連れを二度見かけ、人のすがたはからきし見ないまま夏が終わった。別荘のそのまた別荘のずずずーっと奧、素敵な留置所の豪奢な生活ですっかり肥えてしまった隣人は、面会所ですこしばかり真面目な表情でいったものだ。「911は自作自演だって、アサ芸でよんだよ、ベンジャミン・フランクリン。このままぢやあニッポンだめになるべえ?」ああ、とわたしも相づちを打ち、テポドンでなくライフル発射!!でイガグリ頭になったヤツの楕円形を、先日猫に追い回され断崖を駆け回っていた烏骨鶏のいつも生み落とすあのつやつやと見事な卵みたいだナとおもったりしていた。「もう三ヶ月ですか…」と大家。「ながいなあ」とわたし。「うんにゃ、まだ75んちくらいだべ?」と仕切りの丸穴のむこうがわで本人。立派なモノだよ、二ヶ月以上も入ってるなんて♪温泉なら身体が溶けているころだ。そういえば、あさがたに出かけるとき同行する大家がスーパーの留置場いや駐車場にクルマを止めて駆け込んだ。やがて衣料品売り場で下着を買ってもどってきた。「ははは、ムショでは下着の差し入れがイチバンなんだって!」へえ。感心して聞いていると「いやそのちょっと身近にン年ほど入っていた経験者がいましてね、ゆうべ聞いてきたんですよ。いつも清潔な下着が差し入れられると、あの世界では格上になるそうです、ははは、あ、じゃあいきましょか」ぶうううおおおーーーー。交通刑務所か、ならきっと本人だろう。しかし今朝は酒臭くないからまあ、だいじょうぶだろうと、わたしはトラックの助手席に座ってベルトを締め、運転する水谷豊の酒やけした横顔をななめ横75度くらいからながめる。空はあいかわらずいまにも雨粒が駆け落ちしてきそうな案配だ。ぴかっと光ってゴロゴロとくるかもしれない。其れがかれこれついこの直近で、その前の数日だったかは東北の山林をさまよう夢を見ていたっけ。いや夢ではなかったかもしれない、本当はまったく前後不覚でひたすら仕事にうつつをぬかしていたのだろうきっと。ウツツといえばきょうの夕暮れ時はちかくを散歩していて奇妙な幻覚をみた。散歩コースに観音堂がある。そこはすこし小高い丘でそのしたが切り通しの小道になっている。なにげなくその方向をみると、若草色の和服のおんながじっと切り通しの石垣に寄りかかるように立っている。細身のなんだか病弱そうな身体の線が斜面にしなだれかかるような具合で立っている。すこし近視の目を凝らして顔を見ようとしたけれど、奇妙なことに顔が黒いのだ。顔だけが真っ黒だ!そこではじめてわたしはどきりとした。そういえば動かない。稲穂が流れるように泳ぐ田圃のむこう、ざっとそれでも10間もない近距離だ。もっとよく見ようと目を皿にしたり茶筒にしたりしてみる。そこでだまし絵のように絵柄はとつじょ化けた。よくみれば折れた桜の大木が苔の生えた胴体をこちらに向けて切り通しにもたれた格好になっているのだった。そのすこし上を見れば、なるほど老木が中ほどで折れて黄色い樹体を露わにみせている。おそらくは落雷で真っ二つに引き裂かれたのだろう。その山桜の大木は春、みごとなサクラ吹雪を一帯の山裾に流すのだ。するとあの幻の女は、もしかしてあのサクラの精かもしれないとまた考えはじめ、するとついさっきわたしの枕元にいた「黒い顔」も彼女だったかと合点したのだった。
午前二時起きだしてゐる世界共
ながい夏休みだった。
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