十月はふしぎな月だ。イメージからいうとこの月は、なぜかわたしには「黒」という色を連想させる。そうして黒というと、黒社会、黒服、腹黒、黒い金などなど、まずもってそうしたダーティな世界がひきだされてくるのはなぜだろう。「黒い報告書」という週刊誌の連載読み物もあったっけ。一話完結で、じっさいに起きた男女の愛憎がらみの事件を適当にフィクション仕立てにしたもので、これもたしか現職の刑事が書いていた。いまはどうか知らないが警視庁捜査一課の或る部内誌(部外秘扱いだった)にも、当時よく似た実話ものの連載があった。その道に得意な刑事が半ば趣味で書いていたらしいが、なかなか面白かった。国会図書館あたりにゆけば、こうしたものもまとまって保存されていて誰でも読めるのだろうか。日々起こるさまざまな事件は、この社会の底のほうで蠢くヒトという生き物の複雑怪奇さをあらわすとともにそのまま時代の反映でもあろう。新聞はそれらを4W1Hで切り取って無愛想に速報するだけだが、それぞれの事件には生まの人間のおどろおどろしい、どろどろした生が、獣の腹を切り裂いてとびだす臓物さながら見えている。「あんな真面目な人が」とか「おとなしいひとなんですがねえ」「こども好きで気さくな人でした」「いつもにこにこしてとても朗らかなかただったんですよ」といった周囲のコメントとともに、この事件世界では「もうひとつの貌」がどろりと闇の奧から姿をのぞかせるというわけだ。商業映画作品では三池崇史監督の『デッド・オア・アライブ』が描いた、三合会をおもわせる中国マフィアの黒社会。悪党共が跳梁跋扈し、永遠に救いの来ない世界。個人的には、これに『カリスマ』の黒沢清監督の形而上世界を足して2で割ったような小説世界をつくってみたいものである(笑)。小説といえば、10代はじめの頃に熱読した『火星年代記』『なにかが道をやってくる』の作家レイ・ブラッドベリには『十月はたそがれの国』という詩情漂う傑作短編集もあった。なるほど「たそがれ」か。これは「黄昏」と表記するほうが好きだ、、、などと独語しつつ、ふっと窓枠で切り取られた四角い空を見あげる。さきほど外出したときには山の鞍に青い晴れ間の切れ端が見えたのに、いまは薄墨色の厚い雲が全天を覆っている。午後五時。もう夕暮れか。ばたん!とブラインドを落とすように日が短くなり、戸板返しではないけれど黄昏の闇の中にこの世の愁いや哀感が染み出てくる。なるほどこの季節、光もまた黒に近づくということでもあるか。
十月の黒船来たるしじまかな
安晋会という黒世界。二十一世紀、この先しばらくはふたたび奇妙な極東の時代になるのだろう。きのうおそくからはじまったひどい耳鳴りと頭痛が寝て起きたらすこしおさまり、きょうはなんとか仕事を再開できそうだ。(写真は「十月の猫」ピッピ、現在行方不明中)