師走の街を歩く。歩きながら、平成もまもなく二昔(ふたむかし)分を積み上げるのかと、ふとおもった。昭和もはるかに遠くなったわけで、遠ざかる昭和という馬のひづめの音が寒風鳴る耳底にかすかにきこえる。「昭和衰へ馬の音する夕かな」と句集『真神』(昭和48年)で、暮れゆく時代をそうそうに喝破したのは俳人の三橋敏雄だった。ショウワとちいさく呟き、またヘイセイとつづけてみる。「オウア(OUA)」「エイエイ(EIEI)」とそれぞれの母音の配列が浮かびあがり、何度か口の端で転がしていると、なるほど、前者にあって後者にないものや、後者にあって前者に欠けているものなどが見えてきたりする。ショウワは母音が逆順で上がるが、ヘイセイの音の並びは「たひらか」である。どこか間の抜けた感もある。ぞろっと黒い人の群れが一団通り過ぎる。角を曲がると目的の酒場で、樽の廃材でつくった扉を押して闇の中へはいる。暗い階段を下り天井の低い細長い闇の奥で片手を上げて出迎えたのは、これもまた「昭和の人」だ。完了した元号の半ば過ぎにこの國に生を受けた彼女は両親に明治生まれを持つという。「ウソだろ!」と言うと、父親が七十代のときの子だとムキになって説明してくれたのは、もう半世紀も昔のような気がする。中国大陸で日本の諜報員をしていたらしい彼女の父親は膨大な日記を書き残していた。ついこのあいだまで健在だったが亡くなったという。呑みながらそんな話を聴き、そのときに明治が母音では「エイイ(EII)」で、大正は「アイオウ(AIOU)」かなどと頭の隅でおもった。ほかに同年代の男女数名がその場にいて、彼らの両親はほとんどが「アイオウ」組であった。それから話題は戦争のことになった。酒場でそのような話題を話すなどと言うのはそんなにあることでもないなとぼんやりと考え、それから自分の両親のことなどを思い出したりして、どうやら夜明け近くにアスファルトの地面に横たわる自分に気づいたのだった。戦争か…とひとりで口に出してみる。アンリ・ルソーの「戦争」という絵が頭に浮かぶ。戦争を知らずに半世紀を生きてきた。いや、「戦争」はあたりに絶えず出没してはいたけれども、それはどれもみな額縁に納まった「戦争」でしかなかった。「戦場カメラマン」も「戦場ジャーナリスト」も額縁の「戦争」を追いかけるだけのような気がする。その修羅場は一線の兵士たちのものであり、またその空間全体のなかで死んでいった者と生きのこった者たちのものでしかないのだろう。おもえば、「明治」も「昭和」も戦争を持った時代だった…しかし「戦争」とは、いったい何だ。母音では「エンオウ(ENOU)」。そしていままた遠ざかったはずの「馬の音」が近づいてくるか…。
年が明けたら、メデタク昇格した「戦争省(Pentagon)」に電話をかけてきいてみるか。たぶん奴らも知らないにちがいない。