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| | 【第998夜】 2004年7月2日 滝沢馬琴
『南総里見八犬伝』
1990 岩波文庫
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(‥いまや玄月翁は男の身でありながらの産みの苦しみというものに、この世もかくやというほどの七転八倒、この産む身の母なるものの、もぞもぞとした感覚は何かと尋ねる暇もなく、ふらふらと書庫を彷徨ったかと思うまもなく、一冊二冊、五冊十冊と江戸戯作の書棚から妖しい一群を取り出して、ついには机上に曲亭馬琴の壮観を並べ立てたのでありました‥)
(ば、馬琴ですか‥バキン‥?) そうです。馬琴です。曲亭滝沢馬琴です。いま、馬琴を読む人はいますかねえ。ほとんどいないかもしれませんね。まあ雅文俗文を駆使した和漢混淆体の文章だけでも、後ずさりするかもしれないね。でも、とりあえずは現代文になったものを読めばいいんです。それでも『八犬伝』のおおまかな凄さはわかります。それから原文に入っていくといい。
(でも、今夜は、その、いよいよの‥) なんといっても鴎外はね、「八犬伝は聖書のような本である」と言ったんです。こういうことは伊達では言えません。だってノヴァーリスになって、こう言うしかないわけですからね。『八犬伝』は聖書なんですよ。それにしても聖書をもちだされたとは、それも鴎外によってとは、馬琴もさぞかし冥利に尽きるでしょう。(ええ、でもセンセ‥)
『八犬伝』は読本(よみほん)ですね。だから読本を楽しむという読み方が必要です。稗史ですね。馬琴は100巻をこえる夥しい数の黄表紙や合巻も書いていますが、やっぱり読本が濃い。(はあ、こゆい‥)
それでもこれらは、いまでいうなら大衆文学で、直木賞の範疇になる。けれどもいまどきの大衆文学作品で、これは聖書だなんて言えるものはありますか。ちょっとないでしょう。どんなものがあるかと、いまふと思い浮かべてみましたが、まあ、たとえば大西巨人の『神聖喜劇』や車谷長吉の『赤目四十八滝心中未遂』、それからごく最近の阿部和重が山形の町を舞台にした『シンセミア』など、いい出来ではあるけれど、やはり聖書とはいいがたい。
ではなぜ、鴎外はそんな大衆文学のひとつの読本の『八犬伝』を聖書などと大仰に思ったのかということですね。そこを知りたいでしょう。(べ、べつに‥) それはね、そこに「天」があるからですよ。(えっ、天がある? でもセンセ‥)
馬琴に「天」を感じたのは、鴎外だけじゃない。露伴もまた同じことを感じています。露伴は「馬琴は日本文学史上の最高の地位を占めている」と言いましてね、そのうえで、「杉や檜が天を向いているように垂直的である」と形容してみせた。
杉や檜が天を向いているようになんて、露伴らしいですよ。これも伊達や酔狂じゃあ、言えません。何が垂直的かというと、同じ戯作でも京伝や三馬や一九は並列的で、ヨコなんですね。言葉や主題が社会とヨコにつながっていて泥(なず)んでいる。
それが馬琴はタテに切り込み、タテに引き上げる。天があって、空がある。虚空があって、星宿がある。物語がそこに向かって逆巻いて、こう、瀑布のごとくババッと落ちてくる。そういうところが垂直的なんだと露伴は見たんです。
これはね、『八犬伝』に天界にまつわる話がいろいろ出てくるというような意味ではない。そりゃあたしかに『八犬伝』は冒頭からして『水滸伝』に借りて、竜虎山の伏魔殿から洪大尉が百八り妖魔を走らせ、これを天まで水しぶきにしておいて、こう、ババッと舞い散らせたわけですから、天界は物語の半分を占めているようなものですよ。
それに冒頭で、例の里見義実が滔々と弁じたてているのは龍の分類学でしょう。最初から『八犬伝』は天から金襴緞子でいてかつ暗黒な、不思議な異様な物語が、こう、ババッと散ってるでしょう。(ええ、でも、そのババッとだけでは‥センセ、あと3冊で‥)
では、いったいどうして馬琴は「天」を介在させたかということですね。それがわからないとね。それには、ちょっと時代を見なくちゃいけません(いえ、そんなジカンは‥)。
あのね、江戸の文化は19世紀に入ると、文化・文政・天保という40年間でぴったり幕を閉じて、そこから先は御存知、黒船・安政の大獄・長州戦争ばっかりで、ことごとく幕末になるわけですね。この文化・文政・天保の40年間が、ちょうど馬琴の40代から没した82歳までにあたっています。そこにまず注目しておくことです。
で、この40年を思想や文芸や絵画で見ると、(そ、そこまで見なくても‥あと3冊が‥) この時期ってのは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で明けて、式亭三馬の『浮世風呂』と『浮世床』、杉田玄白の『蘭学事始』、それから一茶の『おらが春』というふうに続くんですね。みんな、床屋とか洋学とか、外に向いてますね。ところが、このあと、山片蟠桃が『夢の代』を書き、平田篤胤が宣長の国学を受け、佐藤信淵が『混同秘策』や『天柱記』なんかを書いて、日本の本質を天にまつわらせていくんです。
それで、前夜にお話した会沢正志斎の『新論』の登場です。水戸の奥から「国体」が、ババッと出てくる。そうすると、南北は『東海道四谷怪談』を、頼山陽は『日本外史』を、それから北斎は『富嶽三十六景』を、何かをいったん重ねて折り返しておいて、それから天に開くんですね。(アイザワ正志斎と北斎が‥)
いや、ところが戯作のほうではね、これがあいかわらずの柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』だったり、為永春水の『春色梅児誉美』だったりするんだね。
そこで、大塩平八郎が大坂天満で爆死して、馬琴が『南総里見八犬伝』を仕上げていった。それからもうひとつは、広重の『東海道五十三次』でしょうね。これは視点を上から横から斜めから‥‥。天保文化はこれで終わりです。(よ、よかった‥)
ただし『八犬伝』はね、初編は文化14年からの書きおこしで、それをさらに30年をかけているんです。しかも最後は眼疾失明のなか、幽暗さだかならぬ部屋の中、ひたすら口述をしておみちに書かせ、やっと大団円の完結にまで漕ぎつけた。いちいちおみちに漢字を教えながらね。それまでの『八犬伝』は11行の細字で書いていたんだけれど、それを6行とか5行にして大きい字にしてある。それでも書ききった。凄いことですよ。
それが天保12年です。だからこの40年間は、まさに『八犬伝』の時代だったともいえる。
こういうぐあいに、この時代は「天」をどのように問題にするかは時代のテーマのひとつでもあったということです。それが戯作文化のなかでは、「天」を使っていたのは馬琴だけだった。おそらく鴎外も露伴もそういうところに感心したのでしょう。さすがだね(どうぞ、センセ、先を‥)
それから、鴎外や露伴が馬琴を評価した理由には、もうひとつ別の事情もあったでしょう。それは『小説神髄』の坪内逍遥が、「小説の作法」のなかでクソミソに馬琴を貶めたんですね。そのため馬琴は明治読書界からしばらく姿を消していた。
逍遥は、八犬士のごときは仁義八行の化け物にて、とうてい人間とは言い難い。作者が背後で絲を索いているのはまことに興ざめであると言った。でも、これはどうみても逍遥のほうが狭隘すぎていて、これでは馬琴は浮かばれない。もっともクソミソに言われたのは馬琴だけでなく、三馬も一九も種彦も、江戸の戯作文学がまるごと粉砕されたのだけれど。
まあ、逍遥のリアリズムの提唱はそれはそれでひとつの開示であったんですが、鴎外や露伴はそういう“写実の流行”などにはかまけなかった人ですからね。そこで戯作を救ったんです。けれどもそこがこの二人の卓見になるんだけれど、他の戯作には見向きもせずに、馬琴ばかりを評価しましたね。こういうところが偉かった。
これは最近のことになるけれど、いま、実は、江戸戯作というのが研究者のあいだではちょっとしたブームになっていましてね、戯作ならなんでも結構、江戸の戯作者はすごかった、あの技巧はいまの日本になくなっているという音頭になって、これはこれでミソもクソも一緒くたの手放し絶賛ばかりしてるんですね。そこには、馬琴をすぱっと引き抜く選択眼がなくなっている。
だから今日の日本には、馬琴もいないが、鴎外・露伴もいないんですよ。寂しいね(さ、寂しがっておられては‥)
ま、こういうふうに、馬琴の熟成というものは文化文政天保にあるわけだけれど、じゃあ、その前がどういう文化だったかということです。(また、前に戻るうッ‥)
そこには応挙、写楽、京伝、歌麿、そして宣長の『古事記伝』の完結という成果がずらりと揃っていたんです。だから馬琴の青年期は、これらの前世代をどのように見るかというところから始まるわけですね。そこで青年馬琴が目をつけたのが山東京伝なんですよ。馬琴は寛政2年(1790)に酒一樽をたずさえて、京伝の山東庵を訪れます。そして、京伝に習って戯作に入っていった。
あのね、ぼくは京伝をかなり高く買っているんです。この点については鴎外・露伴とはちょっとちがっていて、京伝の編集力こそ、その後のすべての戯作文化のありようと、メディア・エディトリアリティの何たるかを開いたのだと思っています。いずれそういうことも書きたいのだけど、いまそのサワリを言うと‥‥(そんなヨユーはないので‥)
あっ、そう? じゃ話を戻して、その京伝を狙って馬琴が弟子入りしたというのは、だから馬琴も青年期にして、何か狙い澄ました目をもっていたということなんです。…… |
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