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| | 【第1000夜】 2004年7月7日 良寛
『良寛全集』
1959 東京創元社
東郷豊治編 |
↓いそのかみ ふりにし御世に ありといふ
↓猿(まし)と兎(をさぎ)と狐(きつに)とが
↓友をむすびて あしたには
↓野山にあそび ゆふべには 林にかへり
良寛の書について一冊書き下ろしてくれませんか、と言ってきたのは古賀弘幸君だった。
彼はぼくが良寛に惚れきっているのをよく知っていて、おりふし、良寛の書は打点が高いんだよ、良寛はグレン・グールド(980夜)やキース・ジャレットのピアノによく似合うよねといったような感想を言っていたのを、おもしろがってくれていた。チック・コリアはどうですかというので、うーん、それは比田井南谷かなあと言ったら、手を叩いておおいに喜んでくれた。
こういう言い方は、古谷蒼韻による「マイヨールとジャコメッティから水分を涸らしていくと良寛になる」といったたぐいの感想と同様で、当たっているとも当たってないともいえる。この蒼韻の感想にしても、マイヨールとジャコメッティ(500夜)が一緒になっているところがよくわからない。
それでも古賀君は、そういう感想が書道界にはあまりにも足りなくなっているので、ぜひ書けというのだった。
たしかに良寛を評して、昭和三筆の鈴木翠軒の「達意の書」や日比野五鳳の「品がいい」や手島右卿の「天真が流露している」だけでは物足りない。そもそも良寛の書は達意ではない。焦意(焦がれた筆意)であろう。
書の批評というもの、たしかにあまりに言葉が足りない。禅がおもてむきは「不立文字・以心伝心」といいながら「修行の禅」にくらべて「言葉の禅」が劣らぬように、存分に言葉を豊饒高速にしていたように、書も「見ればわかる」「この三折法はなっていない」「純乎たる書風だ」などというのでは、とうてい埒はあかない。
そこには水墨山水をめぐって多大な言葉が費やされてきたように、また江戸の文人画に幾多の言葉が注がれてきたように、それなりに多彩でラディカルな「言葉の書道」というものが蓄積されていかなければならず、とくに良寛の書ということになると、これは究極の相手なのである。よほどの言葉さえ喉元でつまってしまう。
それを急に期待されて、一冊にしてほしいと言われても困るのだった。
↓かくしつつ 年のへぬれば ひさがたの
↓天(あま)の帝(みかど)の ききまして
ぼくが良寛の書に親しめたのは、樋口雅山房さんによっていた。樋口さんは薬剤師をかたわらでめざす墨人会所属の書家で、はやくから森田子龍と井上有一(223夜)のあいだにいて、その書魂というべきを継承しようとしていた。
その墨人会が、会誌の「墨美」で1959年から10年にわたって良寛を連載しつづけた。それを見たのが大きかったのである。良寛こそが日本の懐素や黄谷山であることが、たちまち誇りのようなものになってきた。
また、良寛は大仙和尚に伴われて備前の円通寺で12年ほどを曹洞禅の修行におくったのだが(じっさいにはいろいろ遊行に出ていた)、その円通寺時代に寂巌の書を見ていただろうことが、ぼくの良寛像を広げていた。寂巌もぼくが好きな書人だった。
そのうえで良寛は日本でもあった。万葉に浸り、故郷の国上山(くがみやま)の神奈備を慕い、「いろは」を仮名にするのを一心に書け抜けた。それは懐素であって佐理であって、しかし越後の良寛そのものだった。
しかし、その良寛の書をめぐって一冊を書くとなると容易ではない。うん、まあ、そのうちと言っているうちに、これ以上を待たせるのはまずくなってきた。
どんなことでもそうだが、依頼を受けたままほったらかしにしていても、そのほったらかしの臨界値というか、節度というか、犯罪すれすれの限界というものがあって、プロの著者たちはこの「すれすれ」がいつ近づいてきたかを正確に察知する。
ぼくは書き手であるとともに、他方においてはエディターシップを仕事としてきたから、この「すれすれ」が平均よりは早くやってくるのだが、それでも自分でもこれはまずいなという気持ちになるときもある。
文章を綴るという仕事は、最初の2~3のパラグラフのところでいくつもの切り口に割れているといっこうに次に進まない。ささくれだった筆の先のように、文章が割れていく。あるいはノズルがつまっていて、それをむりに押すから、文章が細く切れたり掠ったり、ところどころで血瘤のように溜まってしまう。長年、こんなことを経験していると、書き出す前に微妙な予兆がやってくるものなのだ。
このときもそんな気がして、なんだかうまくない。そこで、まずは口述したいと申し入れた。古賀君もいろいろ質問してみたいと言う。
彼は雑誌「墨」の編集者なので、日中の書道文化史にも書法にも詳しい。それだけに片寄った質問になりかねない(実際にはそんなことはなく、とても広げた質問をしてくれた)。もう一人、あまり書にも良寛にも交わってこなかったが、ぼくを知る聞き手がほしいということで、太田香保さんも加わった。これで、のっぴきならなくなってきた。
↓それがまことを しらんとて
↓翁となりて そが許(もと)に よろぼひ行きて申すらく
何度くらい質問を交えた口述をしたろうか。ワープロ・プリントで上がってきたものを見ながら(上手に構成されていた)、書きすすめた。それでもやはり冒頭の毛先と切り口が、一本に絞れない。
これは「書」の話をにもってくるのでは無理だなとおもって、良寛の歌か漢詩をもってくることにした。
最初にすぐに或る漢詩が浮かんだが、捨てた。捨てた理由はあるのだが、しかし、その漢詩については、本当は書きたいこともあった。次のような話である。
田辺元が群馬の大学病院で亡くなったのち、教え子が遺品を整理していたら、二百字詰原稿用紙7枚に良寛の漢詩が30回も書き写されていた。それがぼくが思い浮かべた漢詩だったのである。
生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす
嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪
誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵
夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす
このことは唐木順三(85夜)が筑摩の日本詩人選『良寛』に紹介していたことで、唐木はそこで、田辺元と良寛など、堅い楷書と柔らかい草書くらいの差があって、門人の誰も二つをむすびつけることなど思いもよらなかったと書き、「先生には生涯、草体のやうにくづれたところ、流れたところ、騰々然たるところは無かつたが、晩年にはその外貌は鉄斎や安田靫彦が遺した良寛像にやや似て来てゐた」と付け加えていた。
それにしても死期を間近かに控えた田辺元が、良寛の同じ詩を30回も丹念に浄書しようとしていたというのを知って、ぼくは胸に何かが迫ってきてしょうがなかった。
それでそのことを冒頭に書こうと思ったのだが、それをやめたのは、これでは良寛ではなくて別の角度からの話での出発になると思ったからだった。
↓汝(いまし)たぐひを 異(こと)にして
↓同じ心に 遊ぶてふ
↓まこと聞きしが 如(ごと)あらば
良寛を慕っている文人墨客や作家や詩人歌人は数多い。あるとき五木寛之さんが言ったことだが(801夜)、良寛に出会わなくて、どうして無事に晩年を過ごせる日本の知識人がいますかねえと、たしかに言いたくなるくらいなのだ。
漱石(583夜)もこの漢詩に魅せられて、自分でも良寛を慕う漢詩を作っている。漱石の「則天去私」は修善寺で療養しているときの着想だが、良寛の生き方や考え方にもつながっていた。とくに大正3年に良寛の書を入手したときの感激といったらなかった。
子規(499夜)も良寛に驚いたようだが、それを示唆したのは良寛と同じ越後出身の会津八一(743夜)だった。良寛は漢詩も和歌もよくしたが、中国の唐詩選の五言絶句74首、七言絶句165首をこくごとく和語による歌ぶりにしてみせた八一には、良寛が深く見えていたのではないかと思う。すでに第一歌集『南京新唱』の自序に良寛を引いて、「良寛をしてわが歌を地下に聞かしめば、しらず果たして何を評すべきか」と書いた。
その八一に、坪内逍遥が熱海の別荘の門額「雙柿舎」を揮毫してもらったときも、逍遥は良寛風を望んだ。あの逍遥にして、こうだったのだ。
日本神話の場面を描きつづけた安田靫彦と、『大愚良寛』を著した相馬御風が良寛に傾倒していたことも有名で、もし靫彦と御風がいなければ、これほど良寛が人口に膾炙したかどうかはわからない。
北大路魯山人(47夜)においては崇拝に近く、書を真似てさすがに良寛の風姿花伝を香らせていた。今夜とりあげた『良寛全集』は東郷豊治の編集と解説になるもので、いま刊行されている良寛の詩歌集では最大のものなのだが、この校閲は堀口大学(480夜)が望んで担当している。大学の良寛論はとても耳が澄んでいるもので、ぼくはずいぶん影響されたものだった。
だいたい良寛は「知音」(ちいん)と「聞法」(もんぽう)がある人なのだ。“耳の禅”をもっていた。それは道元に学んで、空劫以前の消息に耳を澄ましてきた曹洞宗の禅僧としての、一種の極意ともいえる。堀口大学はフランス文学者であるが、その耳を澄ます言葉に過敏であった。
↓翁が飢をすくへとて 杖を投じて 息(いこ)ひしに
↓やすきこととて ややありて
↓猿はうしろの 林より
↓栗(このみ)ひろひて 来りけり
このほか、良寛に憧れた者はたくさんいた。松岡譲、亀井勝一郎、吉野秀雄は良寛の普及に貢献し、唐木順三が「最も日本人らしい日本人」と言ってからは、川端康成(53夜)の「良寛は日本の真髄を伝えた」にいたるまで、良寛は日本人の「心のふるさと」とさえ結びついた。
しかし、そのように良寛を褒めちぎっていって、良寛の何が伝わるかというと、これは案外に心もとない。
さきほどの田辺元書写の漢詩にして、この詩句から良寛の生活思想を「騰々任運」とか「任運自在」の一言でまとめる議論が陸続とあとを断たなかったのであるけれど、そうなるとこれは良寛が浸った道元禅の精神そのものと分かちがたく、それはそれで良寛ではあるけれど、半分は道元にもなってしまうのだ(988夜)。…… |
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