第991夜『おくのほそ道』 松尾芭蕉
【第991夜】 2004年6月16日松尾芭蕉『おくのほそ道』1952・2003 角川ソフィア文庫「朝を思ひ、また夕を思ふべし」 「朝を思ひ、また夕を思ふべし」 さあ、芭蕉である。どう書こうかとは何も想定しないで、いま書きはじめた。 できれば、「漢」の表現文化に習熟していた露伴(983)が、晩年には「和」の芭蕉七部集に傾注していったように、いつかはそういうことをしたいと思うけれど、なかなかその機縁に没しきれないで数十年がすぎた。朝にも夕べにも芭蕉が出入りするような日々があれば、いつかまたそういうことも試みたい。それができれば、ぼくにも多少の逆旅(げきりょ)がおこるということになる。 そのかわりといってはなんだが、ここでは『おくのほそ道』をまたぐ芭蕉の推敲編集の草叢に少しく分け入って、その相違を僅かに浮かび上がらせ、蕉門の俳風が到達しきった元禄4年(1691)7月の『猿蓑』で話を終えたいとおもう。露伴の『評釈猿蓑』に敬意を表してのことだ。 『猿蓑』は、蕉門の総力を結集した乾坤一擲の作品集ともいうべきもので、芭蕉は一句一句の入集についての選択はむろん、句中の一語一語にまで気を配った。許六は「猿蓑は俳諧の古今集なり」とさえ言った。 露伴のものは、芭蕉その人が「漢と和」をしばらくリバース・モードにしたことに露伴が気づいて書きこんだ,俳諧評釈をめぐる文芸史上屈指の里程標だった。 ところで最初に言っておいたほうがいいだろうから言っておくが、芭蕉は天才ではない。名人である。そういう比較をしていいのなら、其角のほうが天才だった。才気も走っていた。 芭蕉は才気の人ではない。編集文化の超名人なのである。其角はそういう名人には一度もなりえなかった。 このことは芭蕉の推敲のプロセスにすべてあらわれている。芭蕉はつねに句を動かしていた。一語千転させていた。それも何日にも何カ月にもおよぶことがあった。そういう芭蕉の推敲の妙についてはおいおい了解してもらえるはずのことだろう。 「予が方寸の上に分別なし」 芭蕉についてどう語るかということは、百通りがある。ぼくが読み継いだものを拾っただけでも、おそらく数十を超えている。父の書棚からひっぱりだした懐かしい山本健吉(483)の『芭蕉』(新潮社の「一時間文庫」で3冊)を拙(つたな)い嚆矢にして、それからいったいどのくらいを読んだのだろうか。 大学時代は安東次男の評釈が鮮烈にテビューしていて、それを貪り読んだし、その後は唐木順三(085)を知ってちょっと落ち着き(大きく芭蕉を見るようになり)、その後に保田與重郎(203)から露伴に及んで、居ずまいをただしたものだ。そのころだったか、内田魯庵のぞくぞくするような『芭蕉桃青傳』や芥川龍之介の皮肉な『芭蕉雑記』にも遊んだ。 芭蕉のどの句が好きなのかなどということになっては、これは数年ごとにわらわらと変貌しつづけた。 しかしいま、あらためてふりかえってみると、芭蕉が成し遂げたことは、やっぱり貫之(512)、定家、世阿弥(118)、宗祇、契沖に続く日本語計画の大きな大きな切り出しだったというふうに、見えている。この切り出しには、発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見ということも、高悟帰俗や高低自在といった編集哲学も、みんな含まれる。 では、なぜ芭蕉がそれをできたのかといえば、あの、時代の裂け目を象(かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉が透体脱落したからである。さっと抜け出たからである。 それは貫之が六歌仙から抜け出し、世阿弥が大和四座から抜け出したのに似て、その表意の意識はまことに高速で、その達意の覚悟はすこぶる周到だった。 けれども、なぜ芭蕉にそれができたのかが存分に納得できるには、芭蕉の俳諧人生がその切り出しまでにどのようなスレッシュホールドに達していたかを知る必要もある。 芭蕉翁という「翁」の呼び名がふさわしいにもかかわらず、意外にも芭蕉は51歳の短い生涯だった。しかも本格的に俳諧にとりくんだのはやっと30歳をこえてからのこと、宗匠として立机(りっき)したときは、もう34歳になっていた。 それなのに芭蕉は計画したことをほぼ成し遂げた。そして日本語に革命をもたらした。 「虚に居て実を行ふべし」 芭蕉は寛永21年に伊賀上野に生まれている。藤堂藩の無足人(土着郷士)の次男だった。 寛永文化がどういうもので、つづく寛文文化がどうなっていて、かつ伊賀上野や藤堂藩がどういうところかも重要なのであるが、そのことを書いているとキリがない。 ともかくも最初は貞門の北村季吟に惹かれ、そして29歳で江戸に出た。ここで貞門から談林を覗き、さらに模索を始めた。とりあえずはこれが前提である。だから、この前提までに俳諧前史というものがどのように芭蕉に見えていたかが、芭蕉を語るときのとりあえずの出発点になる。 ごくごくはしょって言うが、京都に発した貞門は、連歌に習熟した松永貞徳によっておこされたものであるだけに、俳言(はいごん)を打ち出した。漢語や俗語や俚諺をつかうことをいう。 俳言は連歌にはなかった言葉をつかったから俳言なのである。だから、ここから俳諧が和歌や連歌から少しずつ自立の準備を始めたことになる。貞門はその俳言を交ぜながら縁語や掛詞を駆使した。たとえば、「山の腰にはく夕だちや雲の帯」(貞徳)。夕立と太刀が掛詞になり、「はく」(佩く・穿く)「腰」「帯」が縁語になって、まだ和歌の風情も残している。 この貞門俳諧の流行が寛永文化に重なっていた。そのなかで『犬子集』を刊行した。これは松江重頼の編集によるもので、俳諧史の最初の活気にあたる。たしか早稲田の暉峻康隆だったとおもうのだが、「日本の三代詩歌集を選べというなら、迷わず『万葉集』『古今集』『犬子集』を選ぶ」と言っていた。かなり大胆な見解だろうけれど、よくわかるところもある。それぞれ時代を切り拓いた最初の詩歌集であったからだ。 貞徳がこうした俗っぽい俳諧を奨励したのには、それなりの算段があった。そのころの武士や町人の識字率が低かったからである。貞徳自身は高尚なボキャブラリーをもちながらも、それをひけらかすことをあえて避け、武士や町人がひとまず俳諧(連俳)をものすることができるように、ハードルを下げたのである。そのことによって多くの者がどうにか言葉を操れるようになったなら、伊勢や源氏や八代集を読むように勧めた。 が、それはそうだとしても、貞門はあまりに言語遊戯に耽った。耽りすぎた。表意を研鑽するものがなくなっていった。そこで大坂の西山宗因がこれに反発した。天満天神社の連歌所の宗匠である。 「実に居て虚にあそぶことはかたし」 宗因の挙動は、第974夜の近松浄瑠璃誕生をめぐる顛末にも書いておいたことだが、京都に対するに大坂の反発を根にもっていた。竹本義太夫が大坂に出て、近松が京都から大坂に移った前史には、この宗因の先行的登場があったのである。 宗因にはもうひとつ、生活や身の回りの俳諧を詠みたいという主張があった。これが談林で、ここからが寛文文化になる。「白露や無分別なるおきどころ」(宗因)。 ここに西鶴(618)が顔を出す。西鶴はもとは鶴永と号していたのだが、宗因門下に入って西山の西をもらって西鶴と改めたことでわかるように、談林を急羨望で先導する役割をはたした。そのうえ、自分は一人でも荒木田守武(ここが連俳の原点である)に戻って「面白み」に徹するという気概をもっていた。「何とて世の風俗を放れたる俳諧を好まざるや、世こぞって濁れり、我ひとり清めり」と自負を述べている。「大晦日定めなき世のさだめかな」(西鶴)。 京・大坂のこうした反目は江戸の社会文化を議論するに、つねに起爆点になっていると思っておくとよい。ついでながら、この反目が低迷しているうちに江戸がおいしいところを攫って(浮世絵や江戸歌舞伎がそのひとつ)、そこにまったく新しい文化様式を経済文化として確立していったというのが、徳川社会文化の前半の大きな流れだった。 京の貞門、大坂の談林はこうして互いに詰(なじ)りあううちに、しだいに新鮮な勢いを衰退させていった。これで、飽きられた。厭きられた。 連歌も俳諧もむろん面白くて連打されるものではあるけれど、そこにスタイルやテイストが発芽しているうちはいいのだが、そこに文言を当て嵌めていじっているのが続きすぎると、「あき」がくる。スタイルやテイストは費い尽くしては失策なのである。 「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」 貞門・談林の風波が重なるなか、ここに19歳の芭蕉が藤堂藩の侍大将である藤堂新七郎の台所御用人として出仕して、その嫡子良忠の御伽衆になった。 良忠は北村季吟の門下に入って俳諧を習っていた。芭蕉も主人に倣ってついつい俳諧を遊びはじめたにちがいない。ただし、21歳のときの俳号「宗房」時代の句が残っているのだが、そうとうにヘタクソだった。「姥桜咲くや老後の思ひ出で」(宗房)。 おそらくこのまま良忠とともに遊んでいたら、芭蕉はとうてい芭蕉にならなかったであろう。ところが芭蕉23歳のとき、良忠が25歳で急没した。これで芭蕉は藩内での出世を諦める。早々に辞職した。そして、とくに勝算があるでもなく京に出て、季吟に古典・漢詩文・俳諧を習いだしたのだ。もっとも、この道に進むもうかどうかをまだまだ迷っている。 当時、俳諧師という職能は、黒衣円頂の装いにあらわれているように、士農工商の枠の外の者なのである。生活の資はすべて門人の点料か旦那衆の眷顧に頼らなくてはならなかった。へたをすれば連衆の御機嫌を伺う“おもらい坊主”と蔑まれたほどなのだ。この時期の芭蕉が迷っていたとしても無理はない。 それに芭蕉自身が、のちに「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」と言っている。……楽天ブックスで購入全文はこちら。