前回、亡くなった友人のことについて書いたけど、悲しみの極みである「死別」のための言葉は「さようなら」だよね。
それで思い出した数ヶ月前に見たNHK視点・論点、「『さようなら』と日本人」。東京大学の教授で専門は倫理学・日本思想史の竹内整一。「「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」という著書も出ている(この本自体は読んだことがないので一度読んでみたい)。
その著者が「さようなら」という言葉と日本人というもの(その精神文化)のつながりについて語った。番組では次のように語っていた。
「「さらば」「さようなら」といいますは、もともとは、これまでのことを受けて、これからのことが起こることを示す、「さ、あらば」「さようであるならば」、という意味の接続詞、繋がりの言葉であります。それがやがて、別れ言葉として自立して使われるようになったものでありまして、考えてみれば、こうしたちょっと不思議な言葉遣いで、日本人は平安時代の昔から別れてきているわけであります。
世界の別れ言葉は、だいたい三つのタイプに分けることができます。一つ目は、「グッドバイ」や「アデュー」のような、神のご加護を願うものであります。二つ目は、「シー・ユー・アゲイン」や「アウフヴィダーゼーエン」、のような、また会うことを願うものであります。そして三つ目は、「フェアウェル」や「アンニョンヒ、ゲセヨ」、のように、「お元気で」と願うものでありまして、大体この3つに分類されますが、「さようなら」はその、どのタイプとも違います。」
どのタイプにも当てはまらない、そこが非常に日本人的であるという。
そもそも「さようなら」は「そうであるならば」(そういうことであるならば)という接続詞。普段は「それでは」や「そんじゃあ」などが代用されている。そういう
「明日、映画見に行かない?」
「明日は仕事があって、無理なんだよね~、ゴメ~ン」
「そっかあ、そいうことなら仕方ないね、また別の機会に見に行こう」
とまあ「そういうことなら(左様なら)」のお後に未来に対する計画などの言葉が続くんだけど別れの挨拶の「さようなら」はその後に続く言葉が省略されている。そして著者はこう言っています。
「さようなら」というのは、これまでの過去をふまえて現在を「さようであるならば」、あるいは「そうならねばならないならば」と、未来に向けて確認するということが、意味として含まれている、ということであります。
「そういうことであるならば、仕方が無い」というある意味諦めのような言葉が「さようなら」、だけどそこには人間の力ではどうすることもできないようなことに対する「受け入れ」もあると著者は言っている。受け入れがたいことに抗うのではなくて自然に受け入れるということなんだ。
なんだか日本語ってすばらしい。古代日本人が「さようなら」に込めた思い。
番組の最後に著者はこういっています。
もうひとつ大事なことがあります。「さようなら」といいますのは、もともと接続詞、繋ぎの言葉であります。申し上げましたように、「ということであるならば」という確認でとどめているのでありまして、そのさきどうする、ということを語らないままに別れているということの意味であります。
そこには、このさきどうなるかは問わないままに、ともあれ、過去を踏まえ今をきちんと確認・総括すること自体において、このさきも何らかのかたちでやっていける、という、そうした思いが込められている、ということであります。
死の問題で言えば、死や死後のことはどういうものであるかはわからないけれど、これまでがこうであるならば、「さようであるならば」、死んだとしてもこのさき何とかなる、だいじょうぶだといったような思いがそこにはある、ということであります。甘えと言えば甘えなのかもしれませんが、祖先たちの持ち来たった死生観の大事な財産のように思います。
「さようなら」がかなりポジティブな響きに聞こえてきた。さようならは決して終わりを意味するものじゃあないんだね。