小学校の高学年くらいの頃、社会の教科書に載っていた日本の四大公害病のひとつ「水俣病」。子供心に水俣は危険地帯だなと思ったほど。政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのが1968年、そして和解に転じたのが1996年。それでも原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は2004年まで続いたそうだ。
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工場から海に垂れ流された毒物のメチル水銀が魚介類にたまり、それらを食べた漁民がしびれや運動失調、視野狭窄(きょうさく)などに苦しみ、多くの死者も出た。その水俣病の未認定患者を新たに救う特別措置法案が与党と民主党の間で修正され、一本化することで合意した。法案は来週にも成立する見通しだ。(2009.7.3 03:19 産経ニュース)
記事にあるようにこれは水俣病患者と認められなかった「未認定患者」を救う法案。水俣病であるとことを認めてもらうためにこれからも裁判を続けるなら救済の対象外となってしまうということも聞いたので、まだ全面解決とはならないのだろうけどかなり前進した事はたしかなんだろうな。
公害病とう言葉がイタリアにあるかどうかは知らないけど(伊語で公害はInquinamento)、公害病という言葉が1960年代や70年代の日本を象徴する、またこれを機に環境意識を高まらせたのは間違いんじゃないかと思う。
でもこんな問題を生み出すような会社ってどんな会社なんだろうかと思ってウィキった。
新日本窒素肥料(現在チッソ株式会社・CHISSO CORPORATION)、創業は野口 遵が一代で築き、「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。またこの会社は旭化成、積水化学、積水ハウス、信越化学工業の母体会社でもあり野口 遵はこれらの実質的創業者でもある。
現在は、液晶事業において、ドイツのメルク社と並び世界のトップシェアを誇り事業の柱とする一方、石油化学部門では、三菱化学の石化セグメント子会社、日本ポリケムとのポリプロ事業統合などで、事業のさらなる展開を図っている。また、バイオテクノロジー・電子部品部門も展開する一方、旧来からの肥料事業・農事産業部門も継続する。
ホームページもここでチェックできる。水俣病ついてというページもあるけど今はリニューアル中って書かれてあった。
日本の高度経済成長は今の日本の豊かさの土台になったけど、その犠牲になった人たちが数多く存在しているという事は忘れてはいけないし、救済されるべきだろう。