真夜中の「シトロン・ドロップ」
『遠い月日を ゆるく溶かして 蜜にして 新月の闇夜を照らすは 琥珀のランプ 豪華で甘い ランプのひかり』レモンの形のお月さまが夜の天幕にぽっかりかかった真夜中に、不思議な旋律の静かな歌が流れていました。まわりの家ががみんな寝静まっているなかで、ひとつだけほっこり明かりがついています。『シトロン・ドロップ』。眠兎町で、骨董屋さんみたいなお店をしている、セイラのところ。さっきの不思議な歌は、そこから聞こえてきています。『竜の血の ごとき深い紅の柘榴石 持ち主をまもるその石は 大いなる力と知性を備えた 偉大な王竜のよう…』歌い手は、腰までとどく、艶やかな闇色の髪をした魔女でした。身にまとうものすべてが黒い魔女は、ゆったりと歌い終えてかたわらに目をやれば、とろんとした表情のままどこか遠くにいってしまっている、自分の歌のただ一人の観客。くすりと小さく笑い、名前をよびかけるけれど。これがまた、なかなか戻ってこないのです。「セイラ。……セイラ?!」「……あっ」やっと彼女が夢うつつから覚めたのは、魔女が何回よんだあとだったでしょうか。「やっと帰ってきたわね」「……ごっごめん、ソフィア。あんまりあなたの歌が綺麗だったものだから……」「かまわないわよ、それはそれで嬉しいから」「ところでさっきの歌って…やっぱり?」「ええそう。いつだったかあなたのお店で見た、可愛いお人形さん」「でしょでしょ?やっぱ可愛いわよねっ♪」「ところで……、お代はこれでよかったかしら?」「それはもう、十分よ♪またよろしくね」テーブルの上でかたかたいってる「魔女の歌」でいっぱいのガラス瓶にフタをしてセイラはにっこり、ソフィアに笑いかけました。セイラのお客さんは、この世界のヒトより、違う世界のヒトや魔物さんたちの方が多かったりするので、品物の代金はお金より、お客さんが注文した品と等価なモノとでのの交換がほとんど。セイラを歌声で酔わせた魔女さんも、こことは違う世界の、はるか遠き西のはて。天までとどくかのような高い塔に、ひとりで住んでるのでした。すこしたって。また奥の方から、ぱっと見ただけでは何に使うかわからないような,ごっつい機械をかかえてセイラがでてきました。湯のみを口に運びかけていたソフィアは、頭におっきなハテナを浮かべて、切れ長の瞳をまるくして。「セイラ、それは……何?」あっちこっちに色とりどりのボタンやレバーがいっぱいついていて、それはいかにも古いそうな機械。いつ作られたのかすら判別できないような。「んとね。この機械のなかに~これをいれて~」言いながらセイラは、さっきの「歌」が入った瓶を機械にかぽっとセットして、フタを閉めて。「このボタンをぽちっと押すとー」フタの隣に赤と青のボタンが二つ。それの赤いほうを押すと、セットした瓶がぐるぐる回転しはじめました。見る間に回転がどんどん速くなっていきます。「瓶の中にはいってる『歌』がぎゅっと固まってね、結晶ができるのー。ほら、できた♪」チン、となんとなくレンジかトースターのような音をたてて、機械が作動を停止しました。フタをあけて、瓶を取り出すと、セイラの言葉のとおりに、中には薄むらさきのキャンディーのような結晶が二つ三つ、ころころしています。「ふうん……これが私の『歌』の結晶……」もうほとんど冷めかけたお茶を飲み干し、ソフィアは興味深そうに瓶をゆすってみます。きぃぃぃん、と高い、トライアングルを鳴らしたような音。「この状態になるともう安定してるからー、瓶からだしちゃっても平気なの。で、結晶をオルゴール箱に入れると永遠に壊れないオルゴールのいっちょあがりー」「珍しい機械ね……どこで手にいれたの?」「それは企業秘密ということでー」「残念ね。ああでもそれなら、その機械を使えば、あらゆる歌が結晶になるということよね?」「うん、けっこう人気でねー、あ、最近とある筋で人気の、ブレイクなんとかオーケストラとかいう人たちの曲もあるよー」「ああ……」その楽団の名をきくとソフィアの顔が微妙な表情になりました。「わりと人気だそうね。私の趣味じゃないけれど……」それではね、と軽く手を振って帰っていった黒い魔女を見送って。さきほど出来立てほやほやの『歌晶』をガラス瓶からオルゴールに移しかえようとして、すこし悩みます。黒皮張りがいいかそれとも宝石箱風なのがいいかなあ……この『歌い終わらぬオルゴール』は、もうすでに予約がひとつ入っています。新作ができたら即届けてくれというすこし我がままなお客様。迷いに迷って結局、黒曜石の箱にすることにしました。これが決まるとあとはもう早くて。瓶から、歌いだす『歌晶』を手早くひとつ取り出してビーズやビー玉をしきつめた箱の中に隠すようにいれてフタをしてリボンをかけるとはいできあがり♪なのですが。リボンをかけ終わるかかけ終わらないか、というところでknock・knock・knock。穏やかなノックの音と一緒に、ちりこんかん♪とお店のドアベルが鳴って。ひとりのすらりとした男の人が入ってきました。「今晩は、お嬢さん」氷で紡いだ糸のような見事なプラチナ・ブロンドは、先のほうでゆるく括られています。黒い三つ揃いのスーツの上に、これも黒の、皮のコート。真冬の雪降る深い夜を思わせる、静かな声。だけど、低くささやくようなそのしゃべり方は、耳にとてもセクシィで。「あ…今晩は、レイヴさま」ヒトの姿をされてはいても、背中に大きな翼の幻影が見えるような…。レイヴさまは異界の王、というか魔王というか。要するに、『世界の支配者』系のお方で。いつだったか、セイラが配達にいったときにご一緒した珈琲をいたく気に入られて、それから毎週のように、配達品目に珈琲が加わってしまったのです。でも、それだけじゃ飽き足らずに、とうとうこの眠兎町で、カフェーを開いてしまったという方なのでした。『歌い終わらぬオルゴール』は、そのレイヴさまがマスターのカフェー、『黒曜亭』で流す、BGM用。でもあんまり一つの曲を長く聴く、というわけではないらしく、セイラが『黒曜亭』に行くたび、新しいのは入ってないのか~ないのか~とせっつかれているのです。レイヴさまは幾分そわそわと店内に入ってくると、まっさきにセイラが手にしている包みに目を止めました。「―――――ああ。それですか…さきほど聞こえていた、麗しい歌声は」「はい♪ご注文の、『魔女の歌声』でございます、レイヴさま」「それでは、聞かせていただきましょうか…けれどセイラ、いつになったら貴女は私を『マスター』と呼んでくれるのでしょうねえ…」「…あっ」セイラが思わず口元を押さえるのに、レイヴ様はくすくす…とおかしそうに笑って。まるで宝物をあつかうような慎重な手つきで、透けるように薄い絹の包みをしゃらりととくと、黒曜石製のオルゴールのフタをそうっと開けました。…なかから再び聞こえてくる、流麗なメロディ。ひとときレイヴさまは目を閉じてその歌声に身をまかせ…しばらくゆったりと、時が流れていきます。「これは…また…」オルゴールから流れる曲が、たっぷり2周はしたあたりで。閉じた目を開き、ほうっと感嘆のためいきひとつ。「素晴らしい…という言葉さえ陳腐な…」「ですよねえ…」セイラもまた、ぼうっと聞き入っているようです。「只の魔女で終わらせておくには惜しいほどの歌声をお持ちですね、彼女は。…少々常人には刺激が強いようですが」まーだ桃源郷をさまよっているようなセイラの様子に。ふうと困ったように息をついて、レイヴさまが耳元でささやきます。「…さて。そろそろこちらに戻ってきていただかないと、困るのですがね…セイラ?支払いもまだですし」春の夜にはちょっと不似合いな、しんと凍る夜風を思わせる少し冷たい声に、やっとセイラははっ、と我に帰りました。「ごっ、ごめんなさいレイヴさま、なんか気持ちよ~くしちゃって…」「かまいませんよ…私の魂ですらとろかすような『歌晶』。貴女も人の子。この歌声の魔力に抗う術はもたないのですから」ぱたり、と静かにオルゴールのフタを閉じて穏やかに微笑むレイヴさま。そういえば、ソフィアはあの世界で一番の魔女でした。彼女の歌声にとり憑かれた人たちもたくさんいたっけ、と思い返し、一人うんうん納得するセイラでした。「ところで。支払いには『アレ』もまた込みなのでしょう?」「…あ。え。いいんですか?」オルゴールを元のように包みなおしているとき、ついでのようにして言われた言葉。セイラの顔がぱあっと輝きます。「ええ。あなたが望むなら。では、表へでましょうか」レイヴさまにエスコートされてお店の外へでると、だいぶ天の中心からそれたまんまるお月様がビロードの空にかかっていました。「―――――ああ。良い月夜ですね…」お月様をふりあおぐレイヴさまがぱちり、と指を鳴らすと、刹那。レイヴさまのシルエットが霧のように消えてなくなりました。そしてまた一瞬の後…セイラの瞳は、大きな黒い翼の、美しい漆黒の竜を映し出していました。いうまでもなく、この姿がレイヴさまの本当のお姿。魔王竜の瞳が、凍てつく冬の夜空の色で、高みからセイラを見下ろしています。その瞳の深さに、冷たさに、綺麗さに。少し怖い、と思いつつもセイラは、つい見惚れずにはいられないのです。レイヴさまは、ばさりと一度、その大きな双翼をはばたかせると、爪の先でひょいとセイラをつまみ上げ、自身の背中へほとりと落としました。漆黒の魔王竜、レイヴさまに乗せて頂いての深夜のお散歩。それがレイヴさまからの注文の品に対する、代金の一部になっているのでした。「それでは参りましょうか…深い夜の散策へ」夜は…まだまだ長いのです…