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テーマ:今日見つけた宝物(655)
カテゴリ:本、読み物、講演より
読み進むにつれてアーミッシュの人たちの行動は聖書の言葉に根ざされたものであることがよく分かってきた。 「アーミッシュの方々の赦しとはいったい何なのですか?」 確かにキリスト教の中にあって「主の祈り」は、プロテスタントの方もカトリックの方もたぶん一番最初に覚える祈りで、礼拝やミサの中で必ず皆で祈っていると思う。 カトリックでは現在こんな言葉になっている。 「天におられるわたしたちの父よ。 この平易な「私たちの罪をお許しください。私たちも人をゆるします」の言葉のニュアンスは「神さまによって罪を赦していただいている私たちなので、私たちもあなたを見習って人のことをゆるします。そのように努力したいです。」という感じに読みとれます。 でもこの本に書かれている日本語訳の主の祈りのこの部分は そう、私が子供のころもこのように祈っていました。 私たちが罪を赦すように私たちの罪を赦して下さい。 アーミッシュの方々はこの言葉通りまず人の罪を赦す努力をされるのです。 自分だって同じような間違いや勘違いやぐうたらをやらかす。臆病な心があるから強がって見せたり、そこに直接矢が刺さるから頭が真っ白になって、我を忘れてしまって、何をやったか分からなくなってしまう。 こんな自分だからこそ、相手の人を赦さずにいることはできない。 新しい祈り「先に神からの赦しをいただいて、その恵みの中で人を赦せるようになる」 どちらも他者への理解と恵みへの道ではあるけれど、アーミッシュの方々のように先に「赦す」を先行させることの大切さを私たちはほとんど忘れそうになっている、と読みながら考えさせられました。
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