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テーマ:今日見つけた宝物(655)
カテゴリ:本、読み物、講演より
マザーの苦しみは、はっきりと出会ったキリストに導かれて「愛の宣教者会」を作ったのに、それと同時に、キリストが見えなくなった聞こえなくなった、いらっしゃらないと感じるようになった、ということでした。 あれほどいつもイエス・キリストを感じ言葉を交わし、このような修道会を作りなさい、と導かれてきたのに突然おいでにならなくなるというのは、まるで突然家族を失なった時のような大きな喪失感ではなかったでしょうか。マザーはスラムの中で生きる修道会を作りなさい、と言われたときに、こんな私がそんなことできるのだろうか、と躊躇していた、というふうに講話の中に出てきます。 マザーもスーパーウーマンではなくて、本当に身近に励ましてくれるキリストがいてくれるからこそ、頑張って新しいもの、難しいことに挑戦することができたのだ、ということが分かりました。 それを失うことはどれほど大きな悲しみと不安の中におられたことでしょう。しかもマザーの場合はそれが自分だけに起こった出来事だから、ずっとどなたにも打ち明けることができず、自分の活動がキリストのご意志に沿っているかどうか、それさえも確認できるすべをお持ちでなかった。 この出来事を「霊的闇」というふうに表現されています。 でも私はそれを「闇」というふうにご自身は思われたかもしれないけれども、確かに多くの不安と苦痛の中におられたかもしれないけれど、それは喪失によって引き起こされたものであって、決してそれが信仰上の信頼や絆を断ち切るものにはならなかったから、「霊的闇」と言わなくてもいいと思いました。 「相手の顔が見えない、何の反応もしてくれない。それでも私は微笑み続けます」 マザーはご自身の最も敬愛するキリストを手元から失うことを通して、本当にキリストが求めていた「私は渇く」に応えられる方になられたのではないかなぁと思います。 これが私のこの講話のとりあえずの深読でした。
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