つづき
さて、そこで語られたことはもちろん、ここだけの話なので書き残すことはできません。でも私が思ったことは書いてもいいですね。
そのプログラムの中で「いのちのまつり」草場一壽 絵平安座資尚という絵本を読んで下さいました。
島におばぁを訪ねたこうちゃんが、 皆でお墓参りする場面に出会ってご先祖様のことを考えます。
そして自分が誕生するまでどれだけのご先祖様がいらっしゃるのか、100万人?とまでイメージし、おばぁが「何人いるかは分からないけれど、その中のだれ一人としてかけてはいなかったんだよ」ということを教えてくれるのです。
私の友人Tetsuoさんも以前全く同じことをおっしゃっていた。
「僕はとてもご先祖様は大切だと思っている。
その誰かが生きながらえることができなかったなら、僕はいなかったのだから」
本当におっしゃる通りです。
誰一人として欠けることが無かったから私が今生きている。
それは私が私として生きている以上の意味を私に与えているように思います。
門外不出じゃないといけないかもしれないけれど、そこにいらしていたお母さんが言われました。
「命は自分のものじゃないのね」
そしてさらに私は思うのです。
ご先祖様を思うとき、それは歴史をさかのぼる事に他ならないです。
私たち人間の歴史は何だったか、と言えば、とうとうと命をつないでいけるほど、気楽な現場ではなかった。
天変地異、病気、戦争、長い歴史の中で今日の食べ物を探さなくてメニューを考えるだけで済んでいる時代は染みほどもない。
そんな中で生き抜いてきたえりすぐりの奇跡的な命なのです。
私も、私の夫も、そして子どもたちも。もちろんこの時代に生きて共に出会えている友人や知人も、見知らぬ通りすがりの人も、みんなそうです。
うん、これはものすごく力強いものです。私という存在が何ができようとできまいと、長く長く連なっている命の一つとして、価値には全く隔たりが無く、たまたま生きることができ命を受け継いだものとして、精いっぱい生きていくほかに使命など何もありません。子どもたちも全く同じ存在です。
今日ともにお話しした方々は当り前だけれど、それぞれにご自分の状況は違うところで子育てをなさっていました。
お話を聞けば、私と全く同じです。私も思い当たる事がいっぱいありました。
7人の子育ても1人の子育ても本質は何にも変わらないのです。
その本質はなに?
ええ、親子ほど密着して共に生きる関係はありません。
食も住も、心も体も互いに影響を受けあいながら共に生きていく。
どこでどんなふうな状況の中であっても、
さぁ、
と手をつないで、
一緒に歩こう、一生に生きよう、
そう勇気を持って今日を生きようとすることこそ、「いつくしむ」ではないでしょうか。
そこさえクリアしていれば何も心配することはないと思えました。
そこさえ伝え合うことができていれば、少々この社会には不向きの側面を子どもが持っていようとも、何とか居場所を見つけて互いに支え合い補いなって生きる道を見出していくことができるでしょう。