私も最初の子育ての時はこの園芸家のように子どもたちを育てたいなぁと思い、なるべくあれこれ押し付けずにやろうという考えが中心になりました。
公園に行ったら、こちらは帰りたくてもなるべく子どもの意思を尊重してそこでの展開を見守っていました。
家の中で絵を描きたいと言えば、模造紙を広げて絵具でいっぱい絵を描きました。
絵具の用意することは手間だし、あっちこっちが汚れることを考えればなるべくやりたくないこと。
でも小さな子どもたちが筆で絵を描くことはクレヨンや色鉛筆とは全く違った経験です。だからあえて頑張った!!
幼稚園すら、
「どうして毎日行く必要があるの?3歳児なら毎日行かなくてもいいよね・・・」
て思っていたのです。
その子それぞれが持つ小さな芽を育てたかったからです。
ところが、長男が小学校に入学しカナダに行ってからは、子どもたちに敢えて与えなければならないものが私の中から生まれてきました。
それは欠けているものを補わなくてはならない、とか、ここでしかできないものをしなくっちゃ、という発想です。そう、彫刻家の私です。
たとえば日本語、国語教育(日本語補習校)とか、英語教育(家でも英語を使う)は必須ですし、厳寒のエドモントンでは子どもたちが戸外活動ができない時期もあるので、皆屋内スポーツ(水泳に体操)に週1回は参加していました。
気候の良い時は乗馬、サッカー、キャンプ。冬はスキーにスケート
それでもこれらの活動は大抵家族みんなで関わり合っていたので、みんなで楽しむ時間になり、家族というものがおいてきぼりになることはありませんでした。
これが日本国内に帰ってきたらたくさんの必要がさらに生まれエスカレートします。
この社会はもっともっと、と子どもにも大人にも求めるからです。
うちの家も大変でした。それぞれが必要を持ちそれに応えていたら、どの子も一週間詰めつめで土曜も日曜もスケジュールだらけです。
グロッキーになっていきます。
ここでの「もっともっと」の行き過ぎなところは、「やればやるほど成果が上がるという神話をみんなが信じている」ことです。
だから何においても、やることを優先する。
夕飯を家族から取り上げ、休日を取り上げ、じっくり話すことや聴くことを取り上げてしまう。
できるレベルに関心があるから、いつも大人たちは比較と評価の目でこども(人)を見ます。
確かに、カナダの生活でもあれこれ習い事をすれば時間は縛られはしましたが、少なくとも小学生あるいはそれよりも小さな子どもたちが比較や評価の目に常にさらされている、ということは全くなかったです。