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テーマ:今日見つけた宝物(655)
カテゴリ:教会にて
久しぶりの聖書深読会のような気がしました。11月6日のみことばはマタイ25章1~13節です。本文はこちらからお読みください。 シスターとかなりたくさんの話をしました。その中で私が印象的に思ったことの一つは、 ある意味私には衝撃です。何しろ神様は私たちを等しくお造りになり等しく愛してくださっていると私は思っているのに、等しいどころがズバズバと振り分け、最後には「私はお前たちを知らない」とまで言い切られるのですから・・・。 これは何なんだろう、と考えました。 そして小一時間経ったとき、等しく生まれ等しく愛されていても、私たちには自由という素晴らしいものも与えてもらっている。どちらに向かって歩くのか、何を基準に決めるのか、何もかもが私たち自身に任されている。 だからこそ、「愚か」もあり得るし「賢い」もあるんだ。 それは「最後に『お前のことは知らない』」と言われることがかなしくさびしく恐ろしいからではなく、自分が生まれ生きている、その恵みを思うなら、神様の想いとともに歩むことほど自分を生かす毎日はない、と思うのです。 シスターいわく「神様の想いは聖霊となって私たちのところに届くのよ」 その思いに気づくことができる私たちでありますように・・・
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