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梨畑稲造日乗

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2010.08.27
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カテゴリ:Modern / Avant Garde
アルバムという音楽ソフトの形態が完全無欠であるわけがない。ましてアナログレコードからCDに変わったときに、それまで収録時間が45分からせいぜい長くても50分くらいだったものが、74分まで拡張されたのだから、その影響はおおいにあったはずだ。

音楽会、というかコンサートというか、ライブというか、そういった音楽の実演演奏(堅い・・・。)に行くにつけ、思うのは、時間の長さである。
とにかく長い。
フランス料理みたいに飽きさせない方法はないものか?

あらためて評価するならば、クラシックのコンサートは、演奏会の比較的成熟した形式であろう。NHK交響楽団をはじめ、新日本フィルハーモニックや読売交響楽団などの定期演奏会をプログラムで見ると、メインディッシュである、たとえばチャイコフスキーのピアノコンチェルトのような大曲がでかでかと書かれている。しかし、クラシックのコンサートに行ったことのある人ならばわかるように、このような大曲以外にも、前菜あるいはスープのような小品がメインディッシュの前に演奏される。
それは料理と同じように、味覚という、感覚器官のうちでも言語化しにくい感覚器官の能力を、最大限発揮するために、ストレッチのような舌馴らし必要であることと似て、音楽も、メインプログラムの前に耳馴らしして、聴覚と音楽を受け入れる神経をある程度開いておく必要があるのである。
メインディッシュが供される前に、味覚が目覚め、しかし食傷させないような組み合わせでプログラムは構成されなければならない。

とはいえ、クラシックの名曲は、メインディッシュとしてのボリュームがかなりあるから、やはり重い。
なんとかならないものか。
居酒屋メニューみたいなものにはしてもらえぬか。

話は映画になるけれど、かつて二番館と言われた映画館には、その映画館が組み立てたプログラムがかけられていた。
それはたとえば、「バルト海沿岸の監督たち」とか「女優田中麗奈」とか「東南アジアの傑作アニメ」とかいうふうに、シネコンではとうていあり得ないようなプログラムである。これはロードショウの終了した映画を低料金で流通させるシステムがあったからであり、それ以前に、大衆娯楽として始まった映画が、成り立ちからして低料金で提供されるべきものだという二番館の支配人たちの矜持があったからに違いない。映画と接するニーズが徐々に醸成されていった地盤があったからである。

もちろん商売であるから、こういった二番館は今で言う薄利多売に甘んじざるをえず、そのためには暇に飽かせて二番館のプログラムをぴあとかでチェックして、一日に二軒ハシゴできるような人々の住まう、学生街が立地としては最適だし、環境としても文句ない。
ヴィスコンティ特集など企画したら、3本で朝から晩まで映画を見続ける。それもその当時の料金で500円とか。

1枚のCDに収録される演奏時間が長くなり、多くのライブパフォーマンスもあくびがでるほど長くしまりがない。

逆に映画は単位時間当たりの制作コストが高いかわりに、観客をどれだけ驚かせるかがパフォーマンスの尺度であるかのように、ここ一発で新鮮な刺激を与えようと策を練る。
したがって特定のシーンの単位時間に莫大な金がかかる。その証拠に、映画宣伝で無邪気にも「このシーンのCG製作だけで**億円!」と威張り散らしたりする。

もちろん、そんな映画ばかりでないが、産業化された映画の多くは、予算を刺激の強さのために集中しがちである。
(集中と選択、とか言うらしいが。)

一因には聴衆の欲深さがある。
音楽も、映画も、文学も、みな産業構造の中に多かれ少なかれ組み込まれて、採算を重視するようになった。
なにも、金を取るのが悪いわけではない。
ただ、コストとその回収というサイクルが、パフォーマンスの質を落としていはしないかと危惧するだけである。

一定時間会場に根を生やして、予定されていアプログラムが終わると疲れているのに、もう十分なのに、「元を取ろう」としてアンコールを要求したりとか。それも一曲ならず二曲も三曲も・・・

TIME IS MONEY、時間で音楽や映画や文学を買う。そんなことあっていいのだろうか・・・。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

突然だが、私はいまサントリーホール・ブルーローズ小ホールにいる。(前の文章は数日前に悶々として書いていた)

8月23日 月曜日
Suntory Foundation for Arts'
Summer Festival 2010
- Music Today 21 -
[指揮・ギター]佐藤紀雄 [演奏]アンサンブル・ノマド
演奏された曲目はすべて日本初演

コンサート会場でポメラを開いて書き出すのは初めてのことだが、通信機能もなく、何の音も発しないこの電子文具はたいへんお行儀がよい。


KINGJIM デジタルメモpomera

何も音がしないことに感動すら覚えて、パソコンが、たちあげられるたびに発する、奇矯な起動音に耐えてきた自分がいたことに改めて気づき、あわててその労をねぎらいたくなる。
(もちろん、ポメラを開いてキーボードを叩くのは休憩時間と曲の合間の楽器の入れ替えのときだけです。)

さて、いま前半の部が終わり、15分間の休憩に入ったところ、会場からは、作曲家の湯浅譲二さん、松平頼暁さん、池辺晋一郎さんほか、作曲家や音楽家、音大生などが観客の多くをしめる人の群れがホールの外へ出ていくところ。

前半は、

ジャン=リュック・エルベ
「交替/地形図~エレクトロニクスとアンサンブルのための」・・・ライブエレクトロニクスも使って音が会場を`散歩’する

クリストフ・ベルトラン
「サトカ」・・・上行または下行するパッセージでひらひら音が舞いながらも螺旋状のテクスチュアを織りなしてゆく

ジョナサン・コール
「遺された灰」・・・静寂のノイズミュージックあるいはノイズそのもの。ただそれはノイズが、風が木々の葉をざわめかせるものであり、波頭がくずおれる音であることに限りなく等しいとしてである。

後半が始まった。
(これを書いている私は、一部分は会場にいて、それ以外は後半を聴き終えて会場を出、地下鉄と私鉄を乗り継いで家にたどり着いている。)

後半最初は

ジョルジュ・アペルギス
「シーソー」・・・言葉にできないくらい複雑で、そこから得られる神経への刺激はシンプル。造形、そしてその断続的な音のかたまりの連なりーそれは何かこの世ならぬ動物のかたまりが、目の前を行き過ぎるよう。シーソーとは人を食ったネーミングだが、シーソーでありまた走馬燈のようでもある。

マルトン・イレーシュ
「トルソIII」・・・既存の楽曲の断片化された音がふたたび音空間を構成することができるのか。。。作曲家はそう問いかけながら作曲したというが、発せられた音楽は、もしくはサウンドは、音の抽象絵画ともいうべき独特の配置と構成をもって耳に届く。空白のかわりに休符で、色彩のかわりに楽器固有の音で。

横で聴いている妻がいうように、たしかにこんな場所にいつでもいられる人は幸せかもしれない。

ここには選ばれた音があるからだ。

現在の前衛音楽において、それに対する賞賛の言葉としての`名曲’という語彙が消えつつある。いやとっくに消えてしまっている。もしかしたら初めから無いのかもしれない。
でもそんなことはどうでもよくって、今日私がここで耳にした音は、芸術品に対する工芸品のような造形美をもっている。ただし、工芸品でありながら実用性はかけらもない。
しかし、問われているのが意匠であるとするならば、現代音楽が表出する意匠は、工芸品が身に帯びる意匠に通ずるものがある。

そこには、選ばれた音、採集した音、拾ってくるか掘り出してきたかした音が、熟練工の手で、人間の手に収まりやすいように加工されて並べられる。
収まりやすいというと少々語弊がある。いやたいへん語弊がある。

工芸品にはもともと日用品として生まれ持った機能性がまず第一の属性としてある。そういう意味で`手に収まる’ものである。
一方で音楽はどうか。生い立ちからいうと、神事に用いたりや労働歌であったりもしたが、もっとも重要な機能としては舞ったり歌ったり、要するに身体と関係した音の発生であり、多くは喜びや生命力礼賛のエロス的表現であった。

サントリーホールで、発せられる音を聞いているうちに、ある感覚が、私の聴覚的思考の上に静かに羽をたたみながら降り立った。

一言でいうならそれは日常性、もしくは人間的自然である。

聴いている音楽が音素の集合であるということ、そのことに自然な知覚的認識を覚えると同時に、目の前で、作曲技術、演奏技術の粋を集めて発せられている音が、まごうかたない前衛でありながら、じつは具象を、日常を、再現しようとしているものに聞こえてきたのである。

そこにある音が、そう、シュヴィッタースの創るオブジェのように、古今東西、悠久の時間をつうじて、生成変化し続ける物事の変容そのものから取り出され、再構成されたものであると。

私は作曲し、演奏した音楽家に対して賞賛の拍手を捧げたが、名曲を聴かせてくれたとは思えなかった。そういう思いをこめた拍手ではなかった。名曲に対して打たれた両手の声はなかったのである。

そこには、静かに壁に掛かるオブジェが、そこでさらしている姿以上でもそれ以下でもないことと同様、すべての音はそこで発せられる音であることで自足する宇宙であったのだ。





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最終更新日  2010.08.28 01:57:46
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