カテゴリ:仏法
前回の日記で、仏法が、様々な精神・感情的なストレス解放にも活用できることを書きました。
でも、この方法は、あくまで各個人が求めている一時的な問題解決に至るためのプロセスに過ぎないとも考えています。 というのは、人は生きている限り、ストレスを決して避けて通れないからです。 自然と自然界に含まれる人間という存在の状態において、自他という対象区分や分離状態のなかに生命がある間は、そのルール(法)のなかで、生活し続ける必要があります。 では、人間は、そのような自分を取りまく外側の環境や人に対して、何もできないのかというと、決してそうではありません。 私たちは、自然界の法則を知り、人間の自然ということを学び知ることによって、それを活用することができるようになります。 仏教において導き出された自然界の法則として、「苦・無常・無我」と呼ばれる状態があります。 これは、自然界にあるあらゆるものは、変化し続ける無常性の状態があり、 永遠につづく自我・我と呼ばれる状態はないということや、 身体の知覚認識によって、自他という存在の状態があると考えられている状態も 対象があるという意識がないとき、そのものの存在性がなくなる無我性があり、 また、無常であるがゆえに、ある一定の状態に留まったり、安定することができず 変化を受け続けることにより、苦性が生じるということです。 そして、人間の自然とは、外側の自然の状態に従うだけでなく、 身体としての自分も変化し続け、人は誰もがいずれ年をとり死へ至り、 この身体の五官へと与えられる刺激は、身体としてある間は継続し続け、 その外側の環境に対して、智慧をもち、気づきを持って関わらなければ 人は欲望に翻弄されたり、四苦(生老病死)の現象にとらえられたままになります。 しかしながら、自分の身体を基準に考えて生まれる外側の世界との関係性のなかで、 自然の性質をあるがまま、自然の法性のままにみるとき、 思考や対象との接触によって生まれる認識を、 本来固定的にとらえることができない無我性を知り、気づくとき それそのもの、それに対する思考そのもの、 そして、そこから知覚される身体の快感・不快感・快でも不快でもない感覚を 受け取ったとしても、それと自分を同一視せず、 その性質をあるがままに観察することができるようになります。 仏教の四聖諦(シショウタイ)と呼ばれる原理では、 自然界の三相(無常・無我・苦)の中で各個人が苦痛として認識する過程のすべてを まずは観察します。 そして、苦がどのような構成要素になっているかを分析します。 ここで、苦は知るもの、見るべきものであって、 その現象と肉体と結びついて、それと自分を同一視したときにはじめて、 人間の苦痛・苦悩としての反応が生まれる原則をまず観察します。 ですから、何か問題が起こった場合、それをよく観察する必要性はありますが、 それと自分を同一視して、苦に浸り込む必要はないということです。 また、それと自分を同一視し、巻き込まれている状態のときはじめて 苦悩となるということを知るわけです。 この苦・問題の原因とその構成要素を知るプロセスが、 四聖諦における苦諦(クタイ)と集諦(ジッタイ)と呼ばれる段階です。 次に、問題解決のために、人間は具体的に何をする必要があるのかを見つめる段階が、 滅諦(メッタイ)のプロセスです。 つまり、問題に対して、行動するための指針や目標や目的を定めるわけです。 そして、最後に具体的な実践、実際にどのように行動するかが 「道諦(ドウタイ)」と呼ばれる行動指針を実行に移す心の活用と身体による実践です。 これが八正道(ハッショウドウ)です。 八正道は、苦を滅するためにある具体的なプランの実践です。 その項目は、一つだけ行うわけではなく、トータルに人間を自己開発していく方法でもあります。 具体的には、 正見(ショウケン)-問題を無くすための正しい目的を達成する考え方や信念。-慧(エ)を培う。 正思惟(ショウシイ)-問題を無くすための正しい考え方の筋道。-慧を培う。 正語(ショウゴ)-問題に対して、不平不満や逃避するような言葉をはかず、 何を話すことが目的を達成するために役立つかを話すこと。-戒を培う。 正業(ショウゴウ)-問題に対して、無益な殺傷や不正を行わず正しい行為をすること。-戒を培う。 正命(ショウミョウ)-問題を取り除くために生活を正したり、規則正しい生活を行うこと。-戒を培う。 正精進(ショウショウジン)-苦を取り除く目的・目標に向かって、怠ることなく偏りのない努力をすること。-八正道、全体を成就するために必要な意志であり、意欲。 正念(ショウネン)-自分の身体や外側の状況に、たえず注意・気づきを保ち続けること。-定を培う。 正定(ショウジョウ)-一挙手一投足に常に心を集中し、落ちついて行動すること。-定を培う。 上記の苦を滅するための実践は、三学と呼ばれ、身体の行動面では戒(カイ)を守ることで、目的から離れず、無目的な行動をコントロールし、定(ジョウ)と呼ばれる精神集中力を養うことで最短で目的を達成する能力を育み、慧(エ)と呼ばれるつねに問題を適切・適格に解決でき、物事をあるがままに知り理解する智慧を培います。 (上で書いたことは、あくまで、今が私が学んでいる範囲で理解したことなので、仏法における正確な内容を知りたい場合は、ご自身で仏教関係の本を読み確認されることをお薦めします。) 仏教の人間開発の方法は、三学により、受け取ることや物事を欲しがることによって欲望を満たすだけの状態から、自らの創造性や潜在能力を開発することにより、自分自身を喜びのなかで与える資質を育てることを目的とした体系であるようです。 その最終目的地は、解脱、覚(サト)りであり、ブッダと同じ境地に自らを開発することです。 このような仏教の教えの体系は、つねに現在の苦しみ・ストレス・悩みに対して、適切な解決策と行動指針を与えるだけではなく、完全に苦を克服する生き方・あり方という大きな目的があります。 そして、仏教を信じる信じないに関わらず、まずはその方法論が有効であるかを、自分自身で確かめていけばよいのです。 その上で、その方法によって人生がよりよく改善していくかどうかや、その方法論や道が間違っていないかどうかを、どんなときでも自分で確かめることによって、信じる必要のない真実を確信することができます。 仏教は、ブッダの教えのカリキュラムを学んでいくわけですが、自然界の法則を理解し、さらに自らを拠り所とすることができるようになる道です。 また、個人的な幸せという小さな目標からはじまり、やがては自分を含め、徐々に、周りの人や社会全体へ幸福を広げていくという大きな目的へ向かい、自然に拡大していくようにデザインされているようです。 この道は、個人の力だけで、専門的に学ぶことは、とても大変なことではありますが、最近ではヴィパッサナー瞑想を学ぶことができたり、日本各地の大乗仏教系のお寺、テーラワーダ仏教系のお寺などもあるので、自分自身にあった師を見つけ、少しずつ善友(ゼンウ)の助けを借りたりすることもできます。 また、ここで最も大切なこととして、本当の目的は、在家、出家にかかわらず、人生の苦を克服し、消滅させ、心がどのような時や状況でも、安らかで清らかな境地に達することだと思います。 方法論や助けについては、少しずつ、各個人が今ある環境のなかで整えていき、今ここでできることを実践し、それぞれの道を切り開いていけばよいと思います♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.06.22 20:15:58
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