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カテゴリ:Daily life
クリエイターとしての秋元康のアイディアはすごいなと思うけれど、作家としての秋元康の本はどうも好きになれない。
話題作の、「象の背中」も、プロットや様々なメディアからの発表、立場を変えて続編を書くというのは面白かったけれど、内容がどうもバブリーで、しかも現実、彼が行っていそうな話題のお店が出てきたり、ちょっと軽そうな面を覗かせたりで、そこまで共感のなかった作品の一つ。 夫もたまたま手にとって、するする読める本だから、一度読んでしまうと続きが気になるらしく、あっという間に読んでしまったみたいだったけれど、感想は私といっしょ、読書する時間があるのなら、一緒に借りてきていた海堂尊の「チームバチスタの栄光」の方を読めば良かったと残念がっていた。 しかし、ここにきて、記憶の中に埋もれてしまっていた作品、「象の背中」が再浮上している。 最近、夫の大学時代とても仲の良かった友人の末期癌を知ったからだ。 発見されたときにはもう手術もできないほどの痛ましさ。 本人は告知されていて、メールでこの不運を知らせてきたらしい。 返事はしているが、この先、この友人に対してどう接していいのか悩んでいる夫。 いますぐ会いに行くべきか。 簡単には会いに行けない不便なところに住んでいる彼のもとへ、いきなり友人がお見舞いに行って嬉しいものか。 どこまで告知されているかわからないから、行く事によって、自分の最後が近いことをイヤでも考えてしまうのではないか。 「象の背中」の主人公のように、告知された時から残された時間が続く限り、会っておきたい人と会うという目標を持っていたら、喜んでこちらから会いに行くのに、と夫は言う。 我が家は、海外旅行先で残りの通貨は無理に使おうとはせずに、多めに残して、ユニセフ募金にしたり、災害募金したり、最近では出産時に「オギャー献金(障害を持って生まれたきた子供たちへの募金)」をした。 ささやかながらも、自分たちでできる範囲で、定期的に募金などしている方だと思う。 でも、これはきっと、今の自分たちが幸せだから。 心に余裕があるからこそできる事だと思う。 現に、「オギャー募金」をしたのも、光が元気に生まれてきてくれたことへのお礼の気持ちもあったから。 世界のたくさんの人が一生、笑って生きていけるように願うから、自分たちにできる事はしていきたいと思う。 ささやかな募金でも、それで救われる人がいるならばと思っている。 でも、募金するときの気持ちって複雑。 幸せは比較できないけれど、たぶんそこには、それが自分たちでなくて良かったという思いが隠れていて、自分たちの今の幸せをかみ締めているような気がする。 こんな気持ちって厭らしい。 だから、不幸のどん底にいる友人へ、どう手を差し伸べればいいのかわからない。 でも、お葬式に出席するよりも、最後になるかもしれない友人と話すことが、一番大切なんじゃないかと話している。 慰め、哀れみではなく、学生時代の仲間のままで、あの頃のように楽しい時間を過すことができたらいいのになと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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