ドラゴン山田の研究室
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ニュースをつけたら、12日にトルコのイスタンブールで爆弾テロ発生とのこと。政治都市アンカラと異なり、観光都市イスタンブールは比較的安全、などと言われていたというのに、そんな区別はもはや成り立たないのかも知れない。日本人が巻き込まれたという情報はないらしいので、25年前イギリス留学時に一緒でイスタンブール在住の日本人の友は大丈夫だと思いたいが・・・。
2016.01.13
八王子市と提携したリサイクル業者リネットに、古いパソコン2台を無料で回収に来てもらう。1台目は、記憶違いでなければ2002(H. 14)年、Ph. D. 最終試験で渡英する前に購入したソニーのモバイルパソコン VAIO。Windows XP 搭載の年代物で、久しく使わなくなっていた。2台目は、結婚直前の2007(H. 19)年夏に買った、Windows Vista 搭載の HP のデスクトップ。これで幾多の論文を書いたが、買った当初から、外付けのハードディスクやメディアカード類の反応が悪いなど、いろいろ問題もあった。ともあれ、それぞれに思い出があるが、処分。これで書斎がずいぶん広くなったぞ。
2016.01.12
暖冬が続いた年末年始だったが、今日の八王子は冷たい雨。都心に至っては初雪だと。どおりで寒いわけだ・・・。
相手に向かって放った言葉が、そのまま自分に跳ね返ってくるのは、何とも辛いものだ。その辛さに耐えられなければ、人は反省能力を失っていくのだろうな。言葉はその人の思考(ないし思想)を反映する。自分の言葉に責任を負おうと思ったら、その言葉を吐いた自分自身の思考・思想(そして行動)を反省的に吟味しなければならない。
2016.01.10
大阪出張から早めに帰宅したら、数枚の年賀状と共に、学問上の恩師からの葉書も届いていた。先日、新宿の伊勢丹からお送りしたご退職のお祝いのワインとシャンペンへの、丁重なお礼のお手紙であった。恐縮。
2016.01.09
大阪での出張が早めに終わる。新大阪駅で、妻へのお土産の生八つ橋を買う。久々におたべを選んだぞ。
1泊2日の大阪出張に出発。心斎橋で、シェフィールド留学中に知り合った友人 Kさんと1年ぶりに再会。夕食を共にする。
2016.01.08
妻と新宿へ。今年のお買い初めである。何よりも、退職となられる学問の恩師にと、伊勢丹でワインとシャンペンを物色した。また妻には、誕生日(元旦)のプレゼントということで、京王百貨店でライトブルーのカーディガンと淡いピンクのベストを買ってもらった。それにしても、新宿も温暖だった。
2016.01.05
去年シェフィールドでのイギリス政治学会 PSA で発表した原稿を基にした論文を、スロヴァキアの国際専門誌に投稿していたが、今日1月4日付で、掲載が決定されたとの連絡を受ける。新年早々、最初の結果を出した! 具体的に、いつ載るのかはまだ不明だが。ともあれ、海外の専門誌に論文が掲載されるのは、人生初である。
2016.01.04
世間では仕事始めの今日。私は三が日休んだとは言えなかったので、今日の午後はゆっくりする。年末に買った、1/72スケール Xウィングファイターのプラモデルを、3時間ぶっ通しで組み立てる。自分のためにプラモデルを作るなど、30年あまりやっていなかった。塗装なし、接着剤なしで、それなりにクオリティの高い完成品ができるのだから、今のプラモデルメーカーの技術は驚くべきものがある。で、パチ組はほぼ完了。ただ、シールをまだ貼り終えていないので、未完成ではある。それはまた後日・・・。
元旦、2日、そして今日3日と、年賀状が配達された。子どもの頃から年賀状は出し続けているし、やはりいただくのは嬉しいものである。今ではメールでもSNSでも新年のあいさつはできるが、私はよくよくのことがない限り、年賀状書きを完全にやめることはなさそうだな。
2016.01.03
1月2日。やはり快晴・温暖である。午後、妻と共に浅川の河川敷を少々散歩する。最近は凧揚げの光景が見られないのだろうかと思っていたら、川の対岸で2人ほどの少年(?)が凧揚げをしていた(実際には、風がほとんどなく、ちゃんと揚がっていなかったが)。あぁ、正月の凧揚げはまだまだ健在だったか、と思う。ふと、少年時代を思い出す。40年ほど前、日本にゲイラカイトが入ってきて人気になったが、どういうわけか小学校では「ゲイラカイト禁止」なるお触れが出た。にもかかわらず、学校の凧揚げ大会で必ず数人がゲイラカイトを持ってきていて、それを揚げていても教員は別に注意しない。子ども心に、禁止だというお触れは何なんだよ、と思ったものだった。まぁ、どうでもよい記憶だが。余談ながら、私の父親は、凧にしても竹とんぼにしても、実に上手に作ってくれた。達筆な筆文字で「龍」と書かれた凧を作ってもらい、揚げに行ったことがあったが、あれは小3の頃だったか?
2016.01.02
年が明けた。元旦は私の誕生日。ついに40歳代最後の1年となる。午前中、いわき市の実家に電話。父親もまた元旦が誕生日で、84歳。年男である。母親も2月には84歳になる。それにしても、八王子は温暖で穏やかな正月である。
2016.01.01
紅白歌合戦に、Superfly が初出場。「Beautiful」を熱唱した。だいたい私は、紅白を見ながら「へぇ、今年はこんな歌が流行っていたんだ」と初めて知るものである。しかし、2014年末の紅白はそれなりに感動があったが、2015年はそれほどでもなかった気がする。
2015.12.31
今年2015(H. 27)年も、大晦日を迎えました。ひつじ年の今年「年男」だった私も、明日の誕生日で40歳代最後の1年となります。今日は午後に妻と年越しそばを仕入れに出かけ、その後は部屋の掃除に追われ、要らないものは思い切って捨てました。明日から始まる来年は、課題がたくさんあり、この1年をしみじみ振り返るような気分にはなっていません。むしろ、12月最後の10日間は久々に精神的に落ち込んだため、そこから自分を立ち上がらせることにクリスマス期間を費やした気がします。何があっても、前へ、前へ。来年も何とぞ宜しくお願い申し上げます。
今月18日に公開された映画『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を、見に行く予定は立たない。しかし、バンダイから出たという1/72スケールの Xウィング・ファイター(レジスタンス仕様)なるものを買っちゃった。模型など30年ぶりに等しいので、凝らずにパチ組で作るつもり(スミ入れだけでもできれば違うんだろうけれど)。正月休み中にどこかでできればよいのだが。
2015.12.29
おとといNASに行く途中、ムラウチホビーに立ち寄って、チューリップの球根2種類と球根用の土を買った。今日の午後、妻と改めてそれを植えた。日当たりが決して良くない家なので、果てさてうまく育ってくれますか・・・。
クリスマスの喧騒が過ぎ、「戦後70年」だった2015年も暮れようとしている。20年前の「戦後50年」だった1995年、私はシェフィールドにいたが、この時は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件に揺れた祖国であった。今年は、安保法制や度重なる自然災害等々、日本や人間の来し方を振り返らなければならないきっかけはたくさんあったものの、十分に思索しないまま年を越してしまいそうである。相変わらず、妻とはいろんなテレビドラマを観た。夏から秋、冬にかけても、・『情熱のシーラ』・『Dr. 倫太郎』・『掟上今日子の備忘録』・『偽装の夫婦』・『トミーとタペンス』等々が思い出される。そして、NHK大河の『花燃ゆ』も(竜頭蛇尾気味ながら)放映終了した。アマゾンPrimeでは、ビデオ見放題のサービスが開始されたが、ついつい『仮面ライダー』『仮面ライダーV3』をいくつか観てしまっている(年内でPrime会員は終わる予定だが)。今は、妻にクリスマスプレゼントとして買った韓国版DVDの『キャンディ・キャンディ』を観始めている。今年、音楽は Superfly にはまったが、さすがに何度も聴きすぎたか。杏里やチェコフィルのコンサートにも行ったんだったなぁ。また読書は、一向に進まない山崎豊子『運命の人』だが、細々ながらも第3巻は何とか年内に読み終えそうである。今年はシェフィールド、プラハと、2度の国際学会・国際会議で発表する機会を得たが、12月に入ってからはいろんな意味で不調で、特に先週末から今週は久々に自己嫌悪気味の落ち込みに襲われた。やはり迷った時には、back to the basic で基本に戻らなければならないのだろうな。1年前の12月は、クリスマスを迎える前にラジオなどでさんざんクリスマスソングを聴き、イブまでにはかなり飽き飽きしてした記憶があるが、今年は何かあっさりとクリスマスシーズンが過ぎ去ってしまった感がある。そして、ボクシング・ディの今日、1年前に買って放っておいてしまったチューリップの球根をやっと植えようとしたが、すでに球根はダメになってしまっていた。あ~ぁ、そりゃそうだよなぁ。
2015.12.26
午前中、運転免許の更新のため、新宿の東京都庁に行く。寒いが快晴。この八王子で家探しをするため、三島との間を何度か行き来していた2011(H. 23)年、山梨県内で、高速道路の追い越し車線をずっと走り続けていたということでパトカーに捕まって罰金を払わされたことがあった。そのため、今回の更新は「優良」でなく「一般」となり、都庁で1時間の講習を受けることとなった。確かに、事故を起こさないためには、運転する際の自己中心性を克服しなければならない、ということは納得せざるを得ない。全く関係ないが、今日は、映画『スターウォーズ』最新作の公開日である。外国人の同僚たちは忘年会で口々に「観る」と言っていたが、私はその目途が立たない。八王子市内に満足な映画館がないから仕方ないのだが・・・。
2015.12.18
民法の、女性の再婚禁止期間および夫婦同姓の強制につき、最高裁判決が出た日。合憲だとのこと。私は法(学)については素人だが、それにしても考えさせられる・・・。
2015.12.16
日本大学法学部を会場に開かれたジェンダー法学会の研究大会に、傍聴者として午後のみ参加する。理解できたのは3割程度か。
2015.12.05
妻の昔の教え子で、今、妻の実家のある都市で働いている人が上京。夕方、拙宅に来訪、きりたんぽ鍋をつつく。社会人に悩みは尽きないのだ。
2015.11.28
同僚の L氏と、スペイン料理の店エル・バレンシアーノで夕食。
2015.11.26
今日は現在の住まいに転居して満4年。この日、スロヴァキアに拠点を置く国際雑誌に、論文を投稿した。もともと4月1日にシェフィールドでの PSA で報告し、その原稿をベースに論文にしたものをイギリスの政治理論雑誌に投稿したら、夏の時点で落とされた。それを今度は、8,000字から5,000字に圧縮するという作業を施した上で、別の雑誌にチャレンジ。勧めてくれたのは、9月のプラハでの WPF で知り合ったスロヴァキアの研究者であった。
2015.11.24
妻と、2度目のうかい鳥山へ。紅葉がきれいだったら年賀状用に写真を撮るところだったが、あいにく曇天だった。
2015.11.17
学内で、シンポジウム「人間のための学問を目指して」が開催される。基調講演を仰せつかった私は、「政治と経済の再人間化」をテーマに15分間講演する。ゲストスピーカーは、上智大学の島薗進氏。
2015.11.15
前日13日、パリでテロが起きたとのニュースが駆け巡った。
2015.11.14
八王子へ帰る途中、圏央道に新しくできた菖蒲パーキングエリアで、埼玉県の頑者ラーメンを初体験する。私の好きな細麺だが、スープはこってり系というところか。
2015.11.07
「ウェルネスの森」から八王子へ戻る途中、2013(H. 25)年にできたという藤城清治美術館に立ち寄る。
今年2度目の実家への帰省。5月以来である。10月末日に、埼玉県内で圏央道がつながったため、これまでのように4時起きすることなく、6時出発で、調布や首都高などを通らずに東北道・常磐道に行けるようになった。トータルでかかる時間はそんなに大きく短縮されるわけではないが、渋滞にハマらないだけ疲れ方が違う。楽になった。10:40頃に実家に着。父親が長髪にしているのは生まれて初めて見たぞ。昼食は、近くの中華料理店・萬来軒へ(店内改装して初めてである)。14:00前には実家を去り、定宿と化しつつある那須高原の「ウェルネスの森」へ。3度目であり、2度目のオリエント館の宿泊である。夕日に映える那須岳がきれいだった。
2015.11.06
世間ではハロウィーンのこの日。妻と、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートでサントリーホールに行く。私にとっては、チェコ・フィルのコンサートは3度目。1度目は、1991(H. 3)年エディンバラ留学中の8月、エディンバラ国際フェスティバルでの折。2度目は、もう10年ぐらい前か、やはりサントリーホールに来日した際、広島の S馬氏と一緒に聴いた時。そして、今回だ。もちろん妻は初めてである。指揮はイルジー・ビエロフラーヴェク氏。曲目は、スメタナの定番「モルダウ」に、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番・ハ短調 Op. 18、そしてチャイコフスキーの交響曲第5番・ホ短調 Op. 64。さらにはアンコールで、「売られた花嫁」など2曲が披露された。ラフマニノフの曲を弾いたのは、著名らしい若手ピアニスト、ダニール・トリフォノフ。私がエディンバラにいた1991年生まれだというのだから驚きだ。それにしても、滑らかな演奏であった。なお、私は基本的にメロディーを聴き、妻は主に音色を聴く、という違いを初めて知ったぞ。本場プラハでチェコ・フィルを聴くチャンスに恵まれるのは、いつの日か・・・。
2015.10.31
過日亡くなった、三島市の O本先生。30年前(1985年)に大学に入学した私の、1年次の担任であられた。亡くなったという情報を知ったのが、告別式が済んだ日だったため、遅ればせの弔電だけ打たせていただいた。それに対して、奥様がわざわざお電話をくださった。合掌。
2015.10.24
プラハから帰国して、考えてみれば休みなくかなり多忙な日々を送ってきた。2週連続で千葉にも行ったし、おびただしいメール処理もしてきた。とうとう今日は、ほぼ1日ダウンしたに等しい。
2015.10.23
プラハから帰国してちょうど1か月のこの日、K大学の S井教授と初めて会見する。10年ほど前から折に触れてメールを交換したり、論文や著書のやり取りをさせていただいてきたが、なかなかお目にかかる機会に恵まれなかった。やはり、直接会って話をするということの重要性を改めて実感した。
2015.10.21
千葉大学での日本政治学会・2日目。15:30からの分科会「政治学研究は何を語ってこなかったか――フェミニズムの視座を踏まえて」で司会である。JRの稲毛駅で電車を乗り換えたら、討論者をお願いしている E先生とバッタリ合流する。会場となっている教室は、前のセッションがなかなか終わらなかったが、20年前にシェフィールド(2年目)で一緒だった Wさんと立ち話だったが久方ぶりに再会する。また、分科会で報告者になってもらった A氏もまた、21年前のシェフィールド(1年目)でお世話になった方である。「いつか何か一緒にやりましょう」と言っていたが、こんな形で実現したわけだ。
2015.10.11
来年2016年7月にイスタンブールで開かれる世界政治学会 IPSA。今日が申し込み期日である。すでにおととい5日(月)に申し込みを済ませていたが、同僚が英語チェックをしてくれたので改めてそれを反映させた。結果は1月に伝えられるようだが、はてさてどうなりますやら。
2015.10.07
妻と、モネ展を見に東京都美術館へ。6月13日にシェフィールド大学同窓会イベントで訪れて以来の都美術館であった。鑑賞後は、上野公園内のイタリアンレストランで遅いランチ。
2015.10.06
幕張から戻った翌日。疲れは残っているが、今度の日本政治学会の分科会でお世話になることになっている3人の研究者が、八王子の私の職場まで足を運んでくださるので、死んでいるわけにはいかない。私の小さな研究室で、種々の議論。また、お2人と私とでスペイン料理店で食事会も。
2015.10.03
友人に教えられ、日本弁護士連合会の人権擁護大会に参加する。場所は千葉県の幕張。八王子から東京に出、さらに京葉線で海浜幕張まで行くのは、ちょっとした旅だ。私が参加したのは、「女性と貧困」をめぐるシンポジウムだった。フェミニズムやジェンダーの問題に、理論的に関わってきた私だが、現実に何がどう問題なのかよく知らないということに以前から気づいていた。このままではまずいと特に思い始めたのが今年だが、今回のシンポジウムではいろんな登壇者からいろんなことを学んだ(どれだけ覚えていられるかは不明だが)。どこから手をつければよいのか、何から考え始めればよいのか、思いあぐねていた人間にとっては、いろんなヒントに満ちたシンポジウムであった。誘ってくれた友人には大感謝である。しかし、天気が大荒れになるとの予報だったので、最後のパネルディスカッションは出ずにホテルに行ってしまった。
2015.10.01
学問上の師匠が今月古稀を迎えられ、定年となられた。ゼミ主催の最終講義を、妻と拝聴。また、その後のパーティーでは、口火を切って私が祝辞。緊張した。4年間の非常勤時代の教え子たちにも再会できた。
2015.09.26
17時前に、夕食に出かける。意を決して、旧市街地を北西につっきって、去年 s馬夫妻と入った(はず)のホスポダに行ってマス料理を食べようと試みた。が、店について念のため「クレジットカードは使えるか?」と尋ねたら、キャッシュだけだと言われて、すごすご引き下がる。やむを得ない、同じコルコフナでも、去年妻と一緒に行った店舗に足を向ける。去年と同様に地下に通される。ここ数日、チェコ伝統料理を当然のように食べ続けてきたが、たいがい飽きつつある。ピルスナーのタンクビールは日本では味わえないから注文するものの、メインディッシュは悩む。結局はポークであった。食事を終え、再度旧市街広場方向に歩き出す。途中、これまた去年の寒い雨の朝を妻と朝食に来たパン屋を発見。名前は AU GOURMAND というようだ。まばゆい西日を浴びつつ、いつも前しか通らないティーン教会の脇をすり抜け、裏手を通ってみる。こうして、ほとんど天気に恵まれたプラハの5泊の旅は、終焉を迎えつつある・・・。ホテルに戻って明朝5時にモーニングコールを依頼した後、部屋でパソコンを開くと、さっきメールを送ったシェフィールド大学の Sarah さんから長文の返信が。なんと、彼女も9月上旬にプラハに訪れていたとは!
2015.09.19
日本からプラハに到着して5日。実質的に4日目の今日は、プラハ最後の1日である。昨夜は就寝が深夜だったのに、5時には目を覚まして起きてしまう。ヴァーツラフ・ハヴェル関係グッズか、アルフォンス・ムハ関係グッズか――まだ解決していないお土産問題を抱えて、最後の1日が始まった。朝食後、明日のフライトのチェックインをネットで済ませる。発行されたボーディング・パスは、ホテルのフロントにメールで送り、印刷しておいてもらった。ホテルを出る時に、鍵を預けると同時にそれを受け取った。さぁ、最後の出撃。日本の妻からのメールも勘案し、まずは切手シートが買えないかと思って、再び中央図郵便局へ。だが、24時間空いている中央郵便局も、切手売り場に限っては月~金の午後のみだという。窓口にはシャッターが降りていた。もっとも、展示してある記念切手シートの見本には、正直大したものはなかった。そこから旧市街地へ取って返し、去年妻と立ち寄ったカレル大学の書店に入るも、「切手は置いてない。タバコ屋に行って買え」とけんもほろろ。さぁ困った、と思いながら、てくてく歩いて、これも去年妻と入ったホスポダ、ウ・トシー・ルージへ。修道院で作ったビールを飲ませる店だ。去年と違って今回は1階の席だった。No. 4 とかいうビールと、ウサギの足の料理。どうも今回の旅では、マス料理にはお目にかかれないなぁ。最後の望みを、Vaclav Havel Library にかけ、さらに歩き出す。裏道の、何とも小ぢんまりとしたところにある図書館だが、窓もドアも閉まっている。どうしようか迷った挙句、「えぇい、何もしないで後悔してたまるか」と、思い切って呼び鈴を鳴らすと、館員さんが出てきて応対してくれる(チェコ語とドイツ語しか話せないとのこと)。実に小さい図書館で、Exhibision はわずか1室であった。タッチパネルでハヴェルの生涯を写真付きで見れるようになっているが、全部チェコ語。だが、部屋の1つの壁には、ハヴェルの語録がチェコ語と英語で記されていた。こんな一節があり、思わず写真に収めてしまった。全体主義に関する、1987(S. 62)年の言葉らしい。1989年の2年前ではないか。"Standardized life creates standardized citizen with no wills of their own.It begets undifferentiated peple with undifferentiated stories.It is a mass-producer of banality."ショップには、ほとんどチェコ語の本しか置いていなかったが、写真集と思しきものがあった。棚に置いてあった重いものと、レセプションに置いてあった薄いカラーのものと、値段が同じだったので、カラーの方を買った。これを、お土産に替える。最後に、ずうずうしく写真を撮ってもらってしまった。なお、ハヴェル関係の書籍が積んである壁の棚には、日本語の『プラハ獄中記』も置いてあったなぁ。すばらしい青空だが、旧市街地を歩いて戻るのは消耗につながると思い、Narodoni Trida 駅から地下鉄を使ってしまう。Namesti Republiky 駅で降りたら、ホームで乗車券インスペクションがあった。最初、私に声をかけられているのに気づかず、危うく無視してしまうところだった。危ない危ない(苦笑)。ホテルに戻ったのは13時過ぎ。そこから、荷造りに着手したドラゴン山田であった。(15:20)
モーニングコールが鳴る5時半より先に起きている。とうとう、World Psychological Forum の当日を迎える。8月末に軽井沢で買ったブルガリのブルーのネクタイを初着用。古いワイシャツもカッコよく見えるから不思議だ。今回のプラハ旅で初の地下鉄使用で、ホテルより約30分で会場のホテル Dorint Hotel Don Giovanniに到着。受付に行ったら「パスポートかそれ以外の ID を出せ」と言われ、ホテルに置いてきた私はハタと困った。が、クレジットカードで何とか受け付けてもらった。まだ閑散とした会場を下見し、自分の発表に部屋になると思しき Policial Psychology とドアに貼ってある部屋に入ると、初老の紳士に話しかけられる。ルーマニア出身のアメリカの研究者らしい。ガンジーの本を書いたと言っていた。彼に、自分の発表中の写真撮影をお願いする。9時から全体会で、4人もの登壇者がスピーチ。また、13時には私の「発表を聞きに来てね」という2分間の Fast Presentation の出番となる。午前の部が終了した時に、2011(H. 23)年に4か月間三鷹の ICU にいたというインドネシアの心理学者に声をかけられる(日本で「3・11」に遭遇したらしい)。ランチタイムには、オーストリアの研究者と、オランダに住んでいるというロシア人の研究者と同じテーブルになる。来年横浜で心理学関係の国際大会があるそうで、そんな話になる。午後は全体会の続きで、私も名前は知るジャック・ルプニク氏をはじめ2名の登壇者がスピーチする。Political Psychology のポスタープレゼンテーションは、16:15から。トップバッターが私であった。開始前に、翌日発表というイスタンブール出身の研究者と話をする(来年 IPSA に行きたい、と話した)。他の人の発表を見る機会もなくいきなりだが、特に心配したり緊張したりもなかった。人数も少なかったし、かなりカジュアルな形で5分間の発表を終える。午前中にスピーチしていたスロヴァキアの研究者から、「あなたの立場は、参加デモクラシーか、熟議デモクラシーか、それともそれらを拒否する立場か」という、なかなか面白い質問が来た。また、黄色い Tシャツを着た、学生・院生と思しき会場スタッフが多くいたので、写真撮影は彼ら・彼女らに頼めばよかったと後から思った。初めての e-poster なるものを用いた国際会議での発表は、こうして終わった。今からすれば、ポスターの準備段階から、スライドの作り方も含めて、大いに無知だったことを知る。それでも何とかなったのだから、自分に70点ぐらいはあげてもよいのではないか、と思いつつ会場を去った。一度ホテルに戻り、20時からのスメタナ・ホールでのクラシック・コンサート(ヴィヴァルディの「四季」)に間に合うよう食事に出る。迷った末に、去年妻と朝食をとった市民会館1階のカフェで夕食を食べることにする。しかし、スターターの後メインディッシュが出てくるのに優に20分はかかった。デザートまで待っていたらコンサートに遅刻すると思い、お勘定をお願いしたら、請求書とほぼ同時にデザートが出てきた。とても、夕食を「味わった」気がしなかった。コンサートは若干遅れて始まったが、疲れと、ビールおよびワインが聴いたのか、せっかくの初スメタナホールだったというのに、演奏を聴きながら最後は気が遠くなっていた。900コルナも支払ったのになぁ。まぁ、松下奈緒のブルーレイで見たスメタナ・ホールに来たぞということでよしとするしかない(映像より実際は狭かった)。長い1日は終わった。就寝は深夜となってしまった。
2015.09.18
2日目のプラハ(厳密には到着より3日だが)。さすがに寝坊し、起きたら8時だった。カーテンを開けたら、またも晴天。夏日に違いない。目がよく開かないうちに朝食に行き、ごくごく軽く食べる。初日であった昨日、たいがい動き回りすぎたので、今日は自重しなければ。午前中比較的ゆっくり過ごし、10時半ごろに出かける。ホテルを出た瞬間に、空気が暖かいのを感じる。テクテク歩いて、去年妻と訪れながら開店前だったため入れなかったカフェ、グランド・カフェ・オリエントに行く。店はキュビズム様式の建物の2階にあり、松下奈緒のブルーレイにあったように、テラスの手すりには花咲く植木鉢が並んでいる。私もまた、太陽ギラギラのテラス席に陣取る。最初はカフェ・ロイヤルという、ブランデーだかが入ったコーヒーを飲み、次に軽いランチとしてプラハハムを注文。濃い青空のプラハの屋外で、なかなか贅沢な時間を過ごした気がする。支払いを済ませた時、ウェイターさんに写真を撮ってもらう。キュビズムを去り、今度は新市街地方向へ。独身時代にプラハに来た時ウロウロしたはずの目抜き通りナ・プシーコピュ通りをてくてく、ムハ博物館のある通りを抜けて、中央郵便局へ。カフェで友人に書いた絵葉書を投函する。その足でヴァーツラフ広場に出て、2件の書店に入るが、大したものなし。ヤルタホテル前を通過し、国立博物館のすぐそばにまで行くが、まだ改装工事中であることを知った。変わらずギラギラ夏日の中を取って返し、ムハ博物館のショップへ。去年も妻と来たのだが、あれ、こんなに狭かったっけ。去年も大して買うものがないと思っていたが、今年はさらにそう思った。ともあれ、来年のカレンダーや、私が好きな月桂樹の絵のミニポスターなどを購入。そのままホテルに戻る。14時よりも前だったので、部屋の掃除が終わっていなかったらどうしようとか思ったが、そんな心配は無用だった。メールチェックなどをし、明日の WPF 発表に向けての準備も少し行う。何せ、発表に使う電子ポスターは随分前に提出していたが、わずか5分とはいえ何の原稿もなしに説明を行うのもちょっとなめ過ぎかと思い、思いつくままに原稿を作る。しかし考えてみれば、パソコンは持参していてもプリンタがないから、印刷できないんだよな。17時過ぎ、いったんパソコンを閉じて、夕食のため再び外出。すぐ近くのスーパー BILLA の脇にある、コルコフナ CELNICE へ。去年は妻と、別の2つの店舗のコルコフナに世話になったが、ここの店舗は横目で見ていただけだった。今回初使用。しかし、早目に行ったと思ったのにかなり混んでいて、テラス席はだめで屋内の座席に通された。タンクビールのピルスナー・ウルケルと、ピルゼン製グヤーシュを注文。タンクビールはやはりうまい! 昨日ランチを食べたカレル橋のたもとの店では瓶のピルスナー・ウルケルだったが、同じ銘柄でもまるで味わいが違う! また、本来はハンガリー料理であるはずのグヤーシュだがチェコでも定番だと言うので、初めて食べてみたが、なかなかおいしかった。調子に乗って満腹になるまで飲み食いしては、内臓が疲れるだけなので、この程度で終えて18時前にホテルに戻った。だめもとでフロントで聞いてみた――パソコンは持参しているのだがプリンタがないので、作成中のドキュメントを印刷させてくれないか、と。そしたら即座に、フロント宛にメールで送ればプリントアウトしてくれる、との返事が。やっぱ聞いてみるものだなぁ。日本は安保法案の採決の日のはずだが、ホテルの部屋で久々にテレビをつけたら、Sky TV ではシリアからの難民問題でクロアチアが映っていた。
2015.09.17
昨夜は寝る前の薬を大目に飲んで寝たのだが、明け方3時40分ぐらいにトイレに起きて以来眠れなくなった。1時間ほどベッドでコロコロしていたが、思い切って起きてしまう。プラハの日の出は、だいたい6時30頃という。ホテルを5時40分頃に出て、闇のプラハ旧市街をカレル橋方向にてくてく歩く。徐々に空が青みを帯びてくる。カレル橋には、人っ子一人いないどころか、観光客らしい人たちだけでなくプロのカメラマンと思しき人々もポツリポツリいる。みな、カレル橋からの夜明けが見たくて来ているのだろう。しかし、よく写真などで見た、朝もやのかかった幻想的なカレル橋というシーンにはならなかった。それでも、初めて味わうカレル橋の朝であった。また、20年前(1995年9月)のプラハ訪問以来、幾度となく行っている、カレル橋とプラハ城がバッチリ見えるカフェレストランの敷地に行くと、気がつけば私のそばでプロカメラマンらしい人が風景を撮り始めた。思い切って、私の写真を撮ってくれるよう頼んだら、二つ返事で撮ってくれた。感謝感謝。明るくなる空を、ホテルへと引き換えし、7時過ぎにそのまま朝食会場へ(約1時間あまりの朝の散歩だったわけだ)。いったん部屋に戻るが、ムハの「スラブ叙事詩」を今日見てきてしまうと決めたので、8時半頃に再び出かける。マサリク駅近く、共和国広場の地下鉄の駅で、トラムの1日乗車券を買い、目的地に1本で行けるはずのお目当ての24番トラムに乗り込んだ。が、ガイドブックに「しばしば路線が変更されているから注意」と書いてあった通り、この24番も何か変な方向に行く。早めに気づいたので途中で下車。そこから、目指すヴェレトゥルジュニー宮殿までは、歩いていけない距離ではなかったので、またもてくてくする。開館は10時。20分ほど前に到着したので、ギラギラ太陽の下、入り口付近でウロウロする。高校生と思しき団体がうじゃうじゃ待っていた。しかし、いざ開館して「スラブ叙事詩」を見始めたら、客はいたって少ない。実に静かに鑑賞できた。問題は、複製とか絵葉書とか、いっさいの商品化がなされていないのかどうか、買うべきものが全くなかったことだ。これは想定外だった。さて、当初の作戦では、この宮殿から12番トラムに乗り、プラハ城の手前で丘を降り、ペトシーン公園のふもとの Ujezd で下車し、そこからケーブルカー(20年前には上から降りてくるのに使用)に乗ってマナー・ストラナ地区に一気に昇り、そこからプラハ城にまで歩いて行ってからカレル橋に戻ってくる、という寸法のはずだった。しかし、12番トラムが問題なく Ujezd に着いたまではよかったものの、今度はケーブルカーが、今月上旬から来年まで運休だという張り紙が・・・! ケーブルカーの途中駅にあるレストランでランチを食べようかと思っていたので、歩いて登ってやろうとテクテクしたが、そのレストランについたはいいがそこはケーブルカーの中腹で、食事後にさらに同じだけの距離を登らなければならない。すでに太陽は夏日であり、秋冬もののジャケットを着ている私としては、それを脱いで歩いてもすでに汗ばんでいる。こりゃあかん、と「勇気ある撤退」を決断。来た道をそのまま下まで降り、歩いてモルダウ川を渡り、早朝に写真を撮ってもらったカレル橋のたもとのカフェレストラン・ラーフカでランチすると決める。もう12時だったので、カレル橋が見えるいい席はすべて埋まっているだろうと思いきや、一番バッチリ見えるテーブルが、まるで私を待っていたかのように空いていた! だが、メニューを見ると、かつて(20年前? 10数年前?)の時とはずいぶん趣が変わったような気がする。ともあれ、去年来た時も食べなかったチェコ伝統料理のプレートを注文し、さらにチェコワインを初挑戦(それほどおいしいというわけでもなかったが)。しまいには、店員さんにまたも写真を撮ってもらってしまう。このままでは1日乗車券の元が取れない。再びトラムでプラハ城へ行こうと、最寄りの18番トラムに乗ることに。カフェを出て、去年 S馬氏夫妻と食事した(はずの)ホスポダの近くの乗り場まで歩く。ギラギラ夏日で、周囲はみな半袖である。しかも、朝から、この石畳の街を歩き通しなので、ちょっと疲れてきてもいた。トラムを Hradcanska で下車し、さらにテクテク歩いて、去年と同じ入り口からプラハ城の敷地に入る。観光客うじゃうじゃ。私は汗ばんでいる。城まで来たはいいが、わざわざお金を払って中に入って見学する元気はなかったので、ショップにだけ立ち寄る。あるわあるわ、プラハやムハ関係の、カレンダーや絵ハガキやグッズたち。変えるだけ買ったが、大きすぎるカレンダーのみ「入る袋がないのよ」と言われ、苦労して持って行くことに。何だ、やってることは20年前と変わらないじゃないか、と思いつつ、それらを持ってさらにテクテク歩いて下界に降りる。完全な夏日の下、反対側のカレル橋から逆方向にモルダウ川を渡り、「今日何回目だ」という旧市街地をひたすら突っ切って、宿に戻ったのは15時過ぎだった。デジカメで撮った写真をパソコンに取り込んだり、妻にメールしたりしながら一服。食欲はそんなにないものの、夕飯は、市役所の地下のレストラン・プルゼニュスカー・レスタウラツェで、コゼルを飲みながらダックを食べる。1人では多すぎる分量だった。19時半くらいまではまだ明るいプラハの街であった。
2015.09.16
2年連続、通算6回目のプラハ行き。夜明け前の八王子を、妻の車で送ってもらって、京王八王子駅前より成田空港行きリムジンバス乗車。途中、寝る。航空会社の窓口が開く前に、海外旅行保険に入る。すでにチェックインは前日インターネットで済ませていたので、荷物だけ放り込んで、タリーズコーヒーで一服。アムステルダム行き KLM 862 便は、出発時刻を10分早め、10:20に出発。機内では、持参した Political Philosophy の教科書を読むか、ワインを飲むか、寝るか、であった。10数時間がそんなに長いとは感じなかった。飛行機を乗り換えるアムステルダム・スキポール空港で、若干のアクシデント。ゲートB 目指してテクテク歩いていたはずなのに、いつの間にか「乗り換え」ではなく「出口」方向に来てしまい、引き返し不能地点へ。3月末にシェフィールドに行った時にもスキポールを使ったから、間違うはずないと思っていたのに・・・。もっとも、似たような旅行客が数人いたので、私だけのミスではなかった。係員と一緒に本来行くべき方向に行って、「なぁんだ、ここだったのか」ということになったわけだが、再びの荷物チェックを終えてからゲートB までやはり記憶にないルートを通らされたので、改装工事の連続でいろんなものの場所が変わっているのだろう。プラハ行き KLM 1357 便は、小型機というべきか中型機か。それにしても、アムステルダムは雨模様。ゲートから飛行機搭乗までほんの少し地上を歩いたが、寒いし風が冷たい。「プラハもこうなのか」と覚悟を決める。17:45にプラハ・ヴァーツラフ・ハヴェル空港着。お金をユーロからチェコ・コルナに両替し、市街地まで行くミニバスのチケットを購入。18:30初のミニバスは、乗客が私しかいなかった。約30分で、1年前も使ったバス乗降場に到着。そこからホテルまでは石畳の道路なので、スーツケースを転がすのにはいたく苦労した。それでも、まだ空は明るいし、アムスほど寒いというわけでもなかった。初めて宿泊する K+K ホテルセントラルにチェックイン。ビジネスホテルの類であり、去年泊まったホテル・グランド・ボヘミアとは比較にならないものの、明るく開放感はある気がする(特にエレベーター)。部屋は605号室で、ドアキーは変わったタイプだ(比較的厚めのプレートの真ん中に緑色の丸があり、その丸をドアのノブの下にある丸い緑の突起にかざす、というもの)。到着してからの荷ほどきが一番大変なわけだが、それを淡々と済ませた後、去年もお世話になったすぐそばのスーパー BILLA に、飲料水のペットボトルその他を買いに出かける。言葉は通じないのに、まるでここの住民のような行動パターンを見せるドラゴン山田であった。
2015.09.15
後期授業最初の日。妻からのケータイメールで、阿蘇山が噴火したと知る。
2015.09.14
忘れるところだったが・・・、明け方、地震で目が覚める。横揺れで、結構長かった。朝のニュースによれば、東京湾を震源とする地震で、調布で震度5弱。かなり広範囲の地震だったらしい。栃木、茨城、宮城などの記録的豪雨(多くの河川の決壊)に引き続き、今度は早朝の首都圏を地震が見舞う。大災害にはならなかったが。
2015.09.12
八戸に赴任したのはもう20年近く前だが、それ以来お世話になっている友の1人・A重氏が、八王子へ。姪御さんが私の勤める大学のある学部に入学されたとは聞いていたが、会いに来たのだろう。午後に他の用事があった私と妻は、それが済んでから大学に行き、一瞬だけA重氏と再会を果たした。いつ以来の再会だ? 優に10年は越えているか?
来週15日(火)から、チェコのプラハに向かう。その準備にかからなければならないというのに、渡航日に近づけば近づくほど、次々といろんなことが突発的・集中的に起こってくる。ただではプラハに行かせないつもりだな、これは。
2015.09.11