お彼岸と千の風
私の家は周囲が墓地です。それも、横浜市有数の規模を誇っている歴史のある墓園で、近くの火葬場は、第二次大戦でA級戦犯として絞首刑になられた人たちがお骨になったところです。また、通りに面した小さな公園には大正の関東大震災の時の無縁墓地があり、一部のタクシー運転手によれば、心霊スポットともされているようです。もちろん、終電帰りにぶらぶら歩いて何度も通りましたが、そういったものにお目にかかったことはないので、運ちゃんの気の迷いにすぎないですが・・・。 さて、このような場所が、普段閑散としているのは当然ですが、お盆とお彼岸は賑々しくなるのも当然のことと言えましょう。今も、善男善女がお線香片手に亡き人を偲ぶために行き来しております。 この墓参りをする人々も、昨年来NHKのてこ入れで流行っている『千の風になって』を知っているものと思います。中には、CDなどを買い込んで、愛聴、涙する人もいるかもしれません。しかし、律儀にも墓参りはしているわけです。実に日本人と言うのは、融通が効いて素晴らしいではありませんか! もちろん嫌味です。その場の雰囲気で感動しているだけ、浅薄な感動で論理的整合性も哲学性の欠片もないのだと、やぶにらみしているのが本音です。なぜそのようにひねくれた見方をするのかと言えば、たいした内容でもないのに、あまりに流行っているせいです。内容を伴わないものが重用されるほど癪なことはないではありませんか! 私はあれを、NHKが紅白で歌わせる前から、国営放送様が、何やら特別番組を作って(女優が旅先の外国でその詩を朗読するといったもの)、煽っているのを知っていました(ただし番宣を見ていただけ)。それについて、別段何とも思いませんでした。死んだ人、特に大切な人を失っても、その人が周囲にいつもいてくれると感じられれば、残された人の心も落ち着きを得るでしょうから、良い「おまじない」だと思っていました。また、他人の存在とは、自分の記憶にある限り不滅ですから、その意味でこの詩の死んでも死んでいないとするのも、一面の事実として差し支えないと考えていたのです。 しかし、深く共鳴することは出来ませんでした。なぜなら、私は嫌でも日本人で、墓参りをしている人たち同様に、日本文化にとらわれている存在だからです。 この歌は、アメリカ合衆国の詩『Do not stand at my grave and weep』を邦訳し、曲を乗せたものらしいです。どういった内容か、その場の勢いのくせに勿体つけて訳せばこういった感じになります(歌詞をそのまま載せると著作権云々と言われそうなので)。「我が墓の前で泣きたもうな 我はそこに止まらず眠りつくこともなし 我は吹きわたる千の風 我は雪上に輝ける雲母(きらら) 我は豊かなる瑞穂にさんざめく陽の光 我は清らにふりそそぐ秋の雨 君が有明のしじまに目ざめる時 我は霧消の空にわき昇り 輪をなしゆるやかに飛べる鳥とともにあり 我は夜空を優しく彩る星のまたたき 我が墓の前で泣きたもうな 我はそこにあらず、死することもなし」 歌詞は、もっと簡単で曲が乗りやすくなっているわけですが、言わんとすることは同じです。「あんた墓標を前に泣きなさんな。亡くなった人はあそこにもここにもあっちにもいて、あんたと一緒にいるのですよ」と言うわけです。 さて、目の前の巨大な墓園を行きかう人々を前に、私はこの詩を聞かせるべきでしょうか?「我はそこにあらず」・・・。 先祖代々のお骨を墓に安置し、盆だ、彼岸だ、とわざわざ「会いに来る」日本の文化に、この歌詞はまったくそぐわないのです。「我はそこ(墓)にもあり」と考えるならまだしも、歌詞で言えば「そこに私はいません」と断定しているのですから、これでは身もふたもないではありませんか。 結局のところ、日本の文化で何となくでも墓参りをしている人々は、この『千の風になって』に感動するとしても、これも何となくにすぎず、その歌詞を心の深いレベルで受容しているわけではないのは明らかでしょう。論理的に考えたい私が、流行っているらしいその歌に感動する人の、その感動がその場の雰囲気だけの浅薄なものと感じるのは、そういった理由なのです。 そもそもこの歌、その元である詩は、アメリカの文化なり宗教観が根底にあって、初めて成立しうるものです。 第一に、日本人とアメリカ人では、お墓についての感覚が違います。文化人類学などという学問を学んだ記憶はありませんが、日本人はお墓を「寄りしろ」として、亡くなった人と再会を果たしうる場と意識しているものと思います。さらに、代々脈々と存続してきた家の祖先たちを祀る場でもあり、自分もお骨となったら同じ墓に入るといった感覚を持っていたものと思います。 これらは仏教よりも神道的な世界観です。森羅万象に魂が宿り、死してなお、魂魄はこの世に留まっていたり、昇華した後も子孫たちを見守ったりするわけです。日本人は葬式だの納骨式だの、仏教的に事を運びながら、内面は神道、土俗的な宗教観念を守り通していると言えるでしょう。本当に仏教に帰依しているのなら、魂は輪廻転生するわけで、確実に「そこに私はいません」のはずなのですから。 一方この詩の生まれたアメリカは、元々熱心なピューリタンの移住に始まるキリスト教国です。亡くなった人間の魂は、簡単に言えば天国か地獄に行きます。つまり、「そこに私はいません」が前提になっており、そもそもお墓は家単位ではなく個人単位であることが多く、祖先との交流の場といった側面がありません。どちらかと言えば、個人の記念碑のようなものと言えます。 この両国の文化的ギャップが如実に現れた事件が、2001年のえひめ丸事件です。ご記憶の方も多いと思いますが、日本の水産高校の実習船がハワイ沖で米軍の潜水艦に衝突され沈没、9名が亡くなってしまった悲惨な事故でした。 事故後、えひめ丸は水深600メートルの海底に沈み、9名の行方不明者の遺体は船体に残っているものと考えられました。この際、遺族のみかこのように考えた日本人は多かったと思います。 「遺体を冷たい水底に放置するのはかわいそうだ。何としても引き上げねばならない」 日本人にとっては、これは当然の発想でしょう。遺体にもお骨にも何らかの魂があるわけで、それはお墓で祀って、お参りすることで「出会う」ようにしなければならない存在なのです。しかし、アメリカ人の考え方は違いました。 「亡くなった人の魂が天国にいけるように葬儀をするのも、遺族に補償をするのも当然だが、お金や手間をかけて亡骸を引き上げるのは無駄である」 結局、加害者であるアメリカ側が日本人の感情を考慮して、船体を浅瀬に曳航し、遺体を収容することになりましたが、曳航作業に要した6,000万ドルの妥当性について、議論の的になったようです。 そこに水つく屍があれば収容すべきだと考えるのは、世界的な標準ではないのです。アメリカ人は、日本の真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナを、引き上げもせずに遺骨もそのままで記念館にすらしています。これは日本人の目には異常でしょう。また、南洋ミクロネシアのトラック環礁において、米軍に撃沈された日本船を欧米のダイバー(観光客)に案内する際に、現地のガイドが日本兵の遺骨を沈没船の甲板に並べて見せているそうで(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070915-00000931-san-int)、日本人としては居たたまれない思いがするでしょうが、欧米人にはあまり罪悪感がないものと思われます。遺骨と見るか、ただの骸骨と見るかの相違なのでしょう(多少人種差別の気配を感じますが)。 『千の風になって』も『Do not stand at my grave and weep』も、欧米の、特にアメリカ合衆国という文化的土壌があって成立するものなのです。一方日本人なら、どこにでも亡くなった人たちはいて、中でもお骨やお墓には強く存在するのだ、と考えるのが自然なのです。 つまり、「そこに私はいません」といった断定は、日本人にとって受け入れがたい話ですから、あの歌にせよ、所詮うわべだけの一時的な流行歌として、何の痕跡も残さず消えてなくなることは、ほとんど自明と言えるでしょう。そしてこれからも、お彼岸には、我が家の前が商店街の賑わいを呈し続けるに相違ないのです。