神前地味婚の薦め
昔は、結婚式だの披露宴など無意味だと思っていたが、現在は、入籍するしないにかかわらず(結果として子供が出来ないのは仕方がないが、結婚して入籍するというのは子供を作るために存在する制度のはずなので、子供を産み育てる気が初めからないなら、入籍する実質的な意味はない)、赤の他人と一緒に生活を続ける予定なら、結婚式は是非行うべきだと思っている。 もちろん、その際に十二単と衣冠束帯など、庶民階級上がりのペーペーがやればお笑い種になるだけだが、是非そうしたければ好きにすれば良いし、普通に貸衣装でも、必死に溜め込んで買ったウェディングドレスでも白無垢でも、とにかくその人たち自身がそれなりに気の済む格好をして、神前で三々九度でも、十字架の前で誓いのキスでも、仏前で・・・何するのか知らないがとにかく、永遠に結婚状態を続けるように「見守ってね。神様仏様!」と念じた方が、だらだら同棲するよりよほどメリハリが利いており、本人たちにもそれなりに緊張感が持てて良いはずだ。何しろ生まれも育ちも異なる赤の他人と暮らすなど、冷静に考えれば背筋の凍る行為をするのだから、何かに酔っ払って正常な判断力を喪失しているか、もしくはそれなりに緊張感がなければ、慣れるまでやりきれるはずがない(日常はすべて慣れであり惰性なので、意識しないと緊張感は保てない)。 さて、最近旧友からの結婚式の案内に「人前婚」とあって、何とも『古式ゆかしい』と感慨にふけったのであった。古式ゆかしい?普段信じてもいない神様仏様に誓うより、両親縁類友人知人に見守られ、その親しい人たちの前で結婚を誓うと言うのは、むしろ現代的で流行とさえ言えるのではなかろうか。しかし、それは違う。それこそが最も原初的な結婚儀礼の形態と見なした方が真実に近い。 そもそも、披露宴などと称して友人知人や有象無象を集めること自体が、人前婚に他ならない。あれはいろいろな人に「両家」が結婚関係に入ったことを披露目、その証人にするためのものなのである。そしてそれは、結婚した(普通なら)若い2人を、年長の第三者である参列者が導き、また安易に離婚しないように監視することを、義務付ける場でもあって、それこそ原始的習俗を残す人々にも共通すると言える儀礼なのだ。つまり、「人前婚」とは、通常の披露宴の名を変えた形態に他ならず、ことさら奇異でも現代風でもないのだ。 ・・・もちろんその友人には直接言えるはずもないが、披露宴の方こそが無用の長物だと私は信じて疑わない。何しろ現代は、それがあれば貧しい国々の子供にどれほど教育と給食を与えられるか知れない数億円という大金をかけて披露宴などしたところで、3年も持たない不届き者までいて、そういった体たらくの夫婦が安易に結婚や離婚をするのを掣肘しなければならない利害を有するほど、密接な関係にある参列者も普通はいないのである(芸能人の場合はむしろゴシップネタになるので喜ばれる)。 昔は、結婚は家同士の結合に他ならず、親類縁者に何かあれば累が広範囲に及ぶので、二人の自由恋愛など許されなかった。一方、結婚しようと離婚しようと親兄弟でも大した影響が無いのが現代社会だ。監視する者される者の緊張感など初めから欠片もないのだから、結婚式での参会者などただ漫然と会食するだけの存在で、そんな者いくら居ようと居まいとそれこそ形式的な儀礼の器物に過ぎない。 つまり、現代を個人主義の時代であると見なす限り、個人個人が勝手に神様なり仏様の前で永久の愛でも何でも、有りそうに無いことと思っても有りえると信じたいことなどを誓いあっていれば良いので(ジーパンにTシャツ姿でもまったく構わないと思う)、原初社会の遺習だけまねて何の意味もない他人を集めて余計なことなどしないのが、論理的な帰結ではあるまいか。 人前婚で希薄な関係に過ぎない第三者の前で宣誓するのも、神仏の前で宣誓するのも、ともに当人たち自身だけの問題なのである。何しろ、将来的に離婚することになってしまっても、神様仏様は何も言わないだろうし、2人の門出を見守った参列者もその点同様なのだ。当人たちの意志だけで自由に解消可能な、まさしくあくまでも個人的な現代の婚姻儀礼に、仕事もあれば思想の違いもある他人を巻き込むより、とりあえず目の前には実在しない神仏の前で誓うのが、広範な他人に迷惑にならず、親類縁者程度に対してけじめもつけられる、現状では唯一の方法だと信じる。 勝手に結婚し勝手に離婚するかもしれない当人たちが、「みんなに祝って欲しい」などと言うとしたら、わがまま気まま気の向くままの妄想発言だと私には思える。特に祝いたくなくても、儀式そのものが嫌いであっても、社会でしか生息できない人間の宿命上、また他人の思想信条は可能な限り尊重する文化的な礼儀上、招待状が舞い込めば、これは最大限参加するようにしなけばならず、その場で「アーメン」と言われれば「アーメン」と言い、「南無南無」と言われれば「南無南無」と言い、立会いの署名を求められれば署名しなければならい。もちろん、ニッカボッカで参列するわけにもいかないのだ。 人前婚でも披露宴でも、当人たちの身勝手で他人様を呼び集め、好き放題の式次第に参加させるのなら、そのはた迷惑さ加減を少しは認識し、プレッシャーにも感じて、せいぜい緊張感を保って安易に婚姻関係を解消するようなことにはならないでもらいたいものである。 もちろん、ご祝儀を出すのが嫌なので理屈を構えているわけではないと、念のため付け加えねばなるまい。